第14章 アイス
当たりが出るまで、お前の金で。
病室でそう約束した棒アイスを、金曜の夕方にミラはいつものコンビニで二本取った。二本で二百五十六円。ニルは昨日退院していた。
デザートの棚の前へ回ったのは、ただの癖だった。
パンケーキが一つだけ残っていた。メープルのカップつきで、赤いシールが斜めに貼ってある。配信の画面が『後ろ』で埋まったあの夜に買ったのと、同じものだった。
手を伸ばしたとき、横からもう一本手が伸びてきた。白いワイシャツの袖から出た、指の太い手だった。
二つの手が、同じ容器の上で止まった。
丸い眼鏡をかけた、小太りの男の人だった。背広の上着を腕に掛けて提げたカゴには、新作の札がついた甘い菓子がいくつも重なっていて、ざっと見ただけで千円は超えている。
男の人が先に手を引っこめた。眼鏡の位置を、指で直した。
「失礼いたしました。念のため申し上げますと、私は糖分を控えておりまして」
カゴの中で、チョコレートの箱が一つ斜めに傾いた。
「ですので、どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
男の人は小さく頭を下げて、レジへ向かった。会計を待つあいだ、ポケットからハンカチを出して眼鏡を拭いている。レンズは、もう十分きれいに見えた。拭き終わっても、まだ拭いていた。
勝ち、とは口の中でも言えなかった。
半額は、店から一本取るものだ。人から譲られた百四十九円は、レジを通っても借りのまま残る。容器を持つ指に、返す先のない重さがかかった。
ニルの家は、港へ下りる坂のいちばん下にあった。一階が干物の作業場で、網を広げた庭先でニルの兄がアジを開いていた。ミラに気づくと、包丁を持ったまま顎だけを上げた。
「アジ、食ったか」
「……ジャスティンの、おばあさんが焼いてくれました」
「そうか」
兄はそれだけ言って、次のアジに包丁を入れた。怒っているのか喜んでいるのか、この人の「そうか」は全部を一つの箱にしまってしまう。
作業場の脇の階段を上がった奥が、ニルの部屋だった。窓が一つ、海の方を向いている。床にはマンガが積んであって、壁の小さなテレビが音を絞ったままついていた。
「来たな。俺の金づる」
ニルはベッドの端にあぐらをかいていた。
「火曜のやつ、あれから来たか」
「来てない」
「来たら、すぐ言え。夜中でも出るから」
右手の包帯はもう取れていて、手のひらの皮膚だけが、生まれたてみたいに薄桃色だった。
ミラは棒アイスを一本渡した。ニルは、わざわざ右手で受け取った。
袋を破いてかじったそばからアイスの角が垂れはじめ、溶けた汁がニルの指の間を通って、手首の薄桃色の皮膚の上まで伝っていく。
「熱いんだよ、ずっと。火は出ねえのに、熱だけ漏れてる」
ミラの手の中のアイスは、いつもの速さでしか溶けていない。同じ袋から出した二本が、二人の手の中で違う速さで減っていく。
ニルは垂れる前に急いでかじって、ほとんど飲むみたいに食べ終えた。棒を窓の明かりにかざす。何も書いていない。
「負け」
ミラも食べ終えて、自分の棒を見た。焼き印で、『あたり』とあった。
「お、勝ちじゃん」
ニルが身を乗り出した。
「……私のは、数に入らないでしょ」
言いながら、棒を指の中に隠すように握った。よりによって今日、『あたり』はこっちの手に来た。ニルの火が戻らないぶんの運を、横から取ったみたいだった。
「当たり前だろ。俺のが出るまでだ。来週も持ってこい」
ニルは笑って、汁でべたつく右手をシーツで拭いた。
それから、拭いた手を見下ろしたまま言った。
「ジャスティンから聞いた。海ん中の話。俺、お前の影に浮かされてたんだってな」
ミラは、あたりの棒を握ったままうなずいた。
「礼言うの、なし。言ったら、お前、それも借りにして持って帰るだろ」
ミラは開きかけた口を閉じた。ちょうど、その借りの額を数えはじめたところだった。
テレビの画面で、白黒の猫が跳んだ。
背中が黒で、腹と足先だけが白い。その下で、小柄な女の人が同じ向きに体をひねる。駅前の大きな画面で見た、あの二人だった。
ニルがリモコンで音を上げた。
「交流戦の去年のやつ。ハズキ。今、いちばん強いやつ」
「……駅前の画面の人」
「俺、こいつに当たった」
ミラはニルの横顔を見た。
「練習で壁に突っ込んでたの、そのため。コウタんちに何回も塗り直してもらった。……で、一歩も動けないうちに負けた」
画面がインタビューに変わった。ハズキは話し出す前に、その場で軽く跳ねた。
「今年も出る。火が戻ったら」
「……勝てるの」
「勝つよ。負けっぱなしは、アイスだけで十分だ」
ニルの右手が、膝の上で指を鳴らす形に動いた。パチ、とは鳴らない。鳴らなかった指を見ないまま、ニルは首の後ろをかいた。
ミラは鞄から、シールのノートを出した。パンケーキの赤いシールを、端から爪で剥がす。今日は途中で指が止まらなかった。
白いページに貼って、日付と店の名前を書いた。ペン先を浮かせてから、その横にもう一つ書き足した。
『丸い眼鏡の人』
勝ちの横に人のことを書くのは、初めてだった。
「何それ」
ニルがのぞきこんだ。
「譲ってくれた人。糖分、控えてるんだって。カゴ、お菓子でいっぱいだったのに」
「なんだそれ」
ニルは鼻で笑った。それから、ページの端のほかのシールの列に目を移した。
「これ、全部?」
「シール。……集めてる」
「地味な趣味だな」
ミラは首を傾げた。
「……地味は、褒めてない」
「褒めてる」
ニルはページをめくらなかった。丸い眼鏡の人、の一行を、黙って見ていた。
窓の外が、夕方の色になっていた。
沖の方に、白い筋が一本海を横切っている。波でも船の跡でもない。そこだけ水の色が変わって、細い線がまっすぐ引かれていた。
「潮目」
ニルが窓の方へ顎を向けた。
「流れがぶつかるとこ。この時期は、こっからよく見える」
それから、なんでもない声で続けた。
「今年の潮目送り、一緒に行こうな」
港の祭りだった。夜に、海へ灯籠を流す。いなくなった人の名前を書いて。
写真立てを伏せた年から、ミラは一度も行っていない。
指先が、アイスを持っていたときより冷たくなった。灯籠に書くとしたら、棚の上で伏せたままの写真立ての、二人の名前になる。書いた瞬間に、二人は、いなくなった人の側へ入ってしまう。それが怖くて、灯籠の明かりが港を流れていく夜は、毎年部屋のカーテンを閉めてきた。
行きたくない。けれど、一緒にと言ったニルの声を窓の外へ流してしまう言葉も持っていなかった。膝の上で、あたりの棒が手のひらに食いこんでいた。
白い筋は窓の外で、動かずにそこにあった。
「……見るだけなら」
「それでいい。灯籠は、俺が二つ持ってく。書くかどうかは、そんとき決めろ」
ニルは、シーツで拭いたばかりの右手を、もう一度握った。




