第15章 赤い丸
月曜の朝、制服のリボンを結ぶ手の横でスマホの画面が光り続けていた。夜のうちに届いた通知が、上から下まで並んでいる。
『港湾倉庫爆発 現場に配信者がいた可能性』
ニュースの記事は短かった。爆発から十日以上たって、急に出てきた記事だった。爆発の直前、現場の近くに人気の配信者がいたという情報がある。関係は調べている。名前は出ていない。
名前を出したのは、まとめKという投稿者だった。
港で野次馬が撮った動画から、一枚が切り出されていた。黒い煙と、えぐれた岸壁と、その端にしゃがみこむ人影。人影の髪の先だけが、赤い丸で囲んである。隣に並べてあるのは、半額ナイトの配信の一枚。肩ごしに映りこんだ、銀色の髪の先。
『同じ髪。同じ街。手しか映さない配信者が、なぜ爆発の現場に?』
その下のコメント欄が、夜のあいだに伸びていた。『こわ』『後ろのやつだろ』『普通にこわい』『こわすぎ』。同じ言葉が少しずつ形を変えて、画面のいちばん下まで積もっている。
リボンが、指の中でほどけた。
筒を投げたのは、フードの男だった。ミラは何も投げていない。港では。
路地では、投げた。そのことは、どこにも書かれていない。
赤い丸は、やっていない方についていた。
丸をつけられるなら、路地の方がよかった。
棚の上で、クロは丸くなって眠っていた。前足に顎をのせて、輪郭のくっきりした、満腹の猫の寝方をしている。
『後ろ』の夜も、こういう顔をしていた。
コメント欄に、こわい、が積もった夜だけ、クロが満腹だった。
床に落ちたクロの影は、それでも伸びていなかった。ゆうべ灯りを消す前と、同じ長さ。知らない人の、こわい、では伸びない。伸びるのは、ミラが怖がったときだけだ。
今、怖がったら、伸びる。
ミラはリボンの端を握ったまま、クロの腹が寝息で上下するのを数えた。七つまで数えて、目を離した。
リボンを結び直した。指が二度、結び目をつかみそこねた。
今日は、学校を休まない。休めば、書かれていることを認めたことになる。
教室に入ると、話し声が一度に低くなった。
誰も、ミラの方を見なかった。見ないようにしている首の角度が、全部同じだった。机のあいだを通るとき、誰かのスマホに赤い丸で囲まれた銀色の髪が映っていて、ミラの目がそこへ届く前に画面は伏せられた。
隣のニルの席は空いている。朝に一行だけ来ていた。『今日 通院 昼から行く』
前の席で、ミナコがヘッドホンをつけたまま座っていた。授業中も、耳に当てたままだった。先生に注意されても外さない。
一度も、振り向かなかった。
屋上の日から耳が大きくなった、とファミレスで言ったときも、ミナコはこっちを見なかった。その背中に、言われていない続きを読もうとしてしまう。浮かんでくる字は、どれもミラの字の形をしていた。
昼休み、ミラは自分の机でパンの袋を開けずに座っていた。後ろの方で、誰かが言った。
「『後ろ』のやつでしょ」
切り抜きのサムネイルに、黄色い文字で入っていた一語だった。いつのまにか、それが半額ナイトの呼び名になっていた。誰かが短く笑って、その笑いは続かなかった。
ミラは、自分の足もとを見た。影は蛍光灯の下で、上履きの形をしているだけだった。ここで膨らまないでと頼む相手が、自分の足もとにしかいない。
昼休みの途中で、教室の後ろのドアが開いた。
ニルだった。鞄を肩に引っかけたまままっすぐミラの隣まで歩いてくると、椅子を引いて、座りながら教室の方へ向きを変えて背もたれに肘をのせた。誰とも目を合わせないまま、教室の全員が見える向きだった。
「なんか用か」
ニルが言うと、教室じゅうが急に教科書を読みはじめた。昼休みだった。
「パン、食えよ」
ニルは教室の方を向いたまま言った。
ミラは袋を開けた。静かな教室で、その音だけがやけに大きく鳴った。
その夜、ミラは配信をしなかった。
代わりに、ミナコの配信を開いた。画面には、ミナコの部屋の白い壁と端の剥がれかけたポスターが映っていた。
いつもは少ない同接が、何倍にもなっている。コメント欄は、半額ナイトのことで埋まっていた。
「はい、こんばんはー」
ミナコの声は、いつもどおり教室より半音高かった。ヘッドホンは、画面の中でも耳を覆ったまま。
「あの動画、あたしも見た。何回も」
ミナコは画面の下の方を見ていた。流れていくコメントを、一つも拾わない。
「あたし、今、耳がおかしいくらい聞こえるから、言うけど。どん、のあとに、男の人の声が入ってる。早口で、最後に、な? って。しゃがんでる子の声じゃない」
ミラの手の中で、スマホが熱を持った。昼のあいだ一度も振り向かなかった背中の持ち主が、画面の向こうでこっちを向いてしゃべっていた。
コメントの流れが速くなった。
『耳いいアピール乙』『知り合い乙』『いや、確かに男の声入ってる』『お前も同類』
一行だけ混じった声は、すぐに流されて見えなくなった。
ミナコは、ヘッドホンの上から片手で耳を押さえた。押さえたまま笑った。指に巻いたコードが、関節に食いこんでいた。
「……はい、じゃあ、今日は歌いまーす」
高い声が、歌い出しで揺れた。
ミラは、コメントの入力欄に指を置いた。
『ありがとう』
打った。指が、送信の上で止まった。今ここに半額ナイトの名前で書けば、ミナコの画面に火のついたものを投げこむことになる。
一文字ずつ、消した。
ミナコの歌を、最後まで聞いた。少ないとミナコがこぼしていた、いつもの視聴者の一人として、黙ったまま。
街でいちばん高い建物の、地下駐車場から上がるエレベーターだった。窓のない箱の中で、オッドは白い綿の手袋の指を一本ずつ伸ばしていた。
一階で扉が開いて、男が一人乗ってきた。フードは下ろしてある。耳にスマホを当てて、早口でしゃべっていた。
「見ました? 赤い丸。いい丸っすよ。俺の顔は、どこにも入ってない。な?」
階のボタンを押した手の甲に、縫い目の跡が線路みたいに並んでいた。片方の靴だけ、紐の代わりに白い結束バンドで締めてある。
男はオッドに気づくと、電話を耳に当てたまま軽く顎を引いた。同じ建物で働く者どうしの、短い挨拶だった。声は落とさない。同じ建物の人間になら聞かれても困らない、という声だった。
オッドも、顎を引き返していた。手袋の中で、指の腹が湿っていく。
「あの、港の」
扉が開いて、男は先に降りていった。オッドは閉まりかけた扉に向かって、続きを飲みこんだ。
オッドが降りた階の廊下には、白い板が立っていた。今週の動きが、細い字で並んでいる。いちばん下の行に、見慣れた配信の名前があった。
『半額ナイト 次回配信時 自宅周辺』
オッドは板の前で、手袋の中の指を握りこんだ。
赤いシールの貼られたものがある夜にだけ、あの子は配信をする。画面のこちら側から見るシールの剥がし方は、いつもどこか得意そうだった。
次に勝ちの夜が来れば、あの子は十時に、いつものように配信を始める。




