第16章 今夜は
今夜は、配信をする。
水曜の夕方、デザートの棚のプリンに赤いシールが貼ってあった。手に取ったとき、勝ちと口の中で言うより先に、勝ちの夜が来てしまったと思った。
ミナコは自分の画面で、耳だけを頼りにかばってくれた。黙って隠れているのは、もうやめる。
勝ちの夜にしか配信しないことは、常連なら誰でも知っている。局の人も、たぶん。玄関に来た男の手帳には、もう『猫』とある。
それでも十時の画面を開くのは、タカの『こんばんは』のためだった。来なくなったのは、路地の夜からだ。あの夜と、あの一行が途切れたことが、同じ日付で並んでいる。確かめられる場所は、十時の画面にしかない。
それでも、ライトの首をいつもの角度に戻した。
部屋の窓は、アパートの前の道を向いている。道の先に、港の灯りが小さく見える。カーテンは閉めてある。机の上には、シールのノートとシールを剥がす前のプリン。棚の上では、クロが前足をそろえて座っていた。
十時に、配信を始めた。
同接の数字は、始めた瞬間に、あの夜の四桁を追い越していった。コメント欄は、読む前に流れていく。
『本人きた』『説明しろ』『爆弾魔』『手しか映さねえの草』
ミラはプリンの容器に指をかけて、シールの端を爪で起こした。いつもどおりの手を映す。それだけを決めて、ここに座っていた。爪の先が、容器の上で二度滑る。三度目で端が起きた。
視聴者の一覧の中に、ミナコの名前があった。教室で前の席に座っている子の名前が、自分の画面の見ている側に並んでいる。
コメント欄に、ミナコの名前で一行だけ流れた。
『戻った』
屋上の帰り道、坂の途中でミナコの声が言ったのと同じ言葉だった。ミナコはそれきり何も書かなかった。名前だけが、一覧から消えずに残っている。
荒れた流れの底に、見慣れた名前がいくつか沈んでいた。
『プリンの日だ』『今日も剥がし方うまい』
いつもの常連たちだった。罵る文字のあいだで、いつもどおりシールのことを話している。
『爆弾魔はシールこんな丁寧に剥がさない』
誰かが書いて、別の誰かが『それな』と返した。ミラは唇を噛んだ。噛んだのに肩が揺れて、映っている手がぶれた。
その中の一人が、別の一行を貼った。
『港の動画、音上げたら男の声入ってる。最後に「な?」って』
流れていく文字の中に、一行だけ、知っている形があった。
『こんばんは』
名前の欄に、タカとある。
路地から帰った夜から来なくなっていた一行が、荒れた流れの中を、ほかの文字と同じ速さで、何もなかったみたいな顔をして上っていく。シールの端をつまんだまま、指が動かない。
背中の真ん中が冷たくなって、それから喉の奥がほどけた。この人は、いなくなったのではなかった。戻ってきた五文字が、画面の上で重い。
続けて、もう一行が来た。
『今夜は家にいないで』
命令なら、もっと短く書く。
ミラはカーテンの端を、指一本ぶんだけ開けた。
アパートの前の道に、白い車が街灯の下に間をあけて何台も停まっていた。先週玄関まで来た男の車は、一台だけだった。どの車の横にも、黒いコートの人が立っている。誰も、こちらを見上げてはいない。見上げなくても、ここがどの窓か知っている人の立ち方。
カーテンをつまんだ指から、血が引いていく。息を吸ったのに、胸のどこにも入っていかない。やっぱり、と思った。思っていたより、多かった。車を数えていた目が、五台目で止まった。
ミラは配信を切った。切る直前、流れていく『逃げた』の文字のあいだでタカの二行だけが画面の上に引っかかって見えた。
スマホの連絡先を、下までたどった。
『おじいちゃん』
最後のやりとりは、三年前だった。向こうから来た『いつでも来なさい』に、ミラは何も返していない。
山の方の電車をいくつも乗り継ぐ町に、父の父が一人で住んでいる。小さいころに一晩泊まった家の軒の下で鳴っていた風鈴の音を、なぜか覚えている。それ以外のことは、ほとんど知らない。
ニルとのトークも開いた。『来たら、すぐ言え。夜中でも出るから』が、いちばん下に残っていた。
言えば、ニルは本当に夜中に出てくる。まだ皮膚の薄い右手で。前の道に、黒いコートが並んでいるのに。
全員、と言ったのはニルだった。その中に自分も入っていることを、ミラは知っていた。親指がニルの名前の上で止まって、それから画面の端へ逃げた。
閉じた。
『おじいちゃん』のトークに戻って、打った。
『今いる?』
送った。三年ぶんの空白の下に、短い一行が浮いた。
既読は、すぐにつく。
『いる』
打ち直した跡も、待たせた間もなかった。ずっと前から、そこに置いてあった返事みたいだった。
着替えとシールのノートを、鞄に入れる。充電器のコードは、棚の裏へ落ちていた。
手を差しこむと、指先に柔らかいものがいくつも当たった。なくしたと思っていた髪ゴムが二本。シールを剥がしたあとの台紙。くしゃくしゃにもしていない、ティッシュが一枚。ひとところに、押しこんであった。
しまっている、と思った。
元の場所へ戻して、コードだけを鞄に入れた。
それから、机の引き出しを開けた。切手のない白い封筒。橋の下の老人が、自分の字で宛名を書いたものだった。封筒も、鞄に入れた。
「……クロ」
棚の上は、空だった。足もとの影が、灯りの数より一本ぶん濃くなった。
棚には、伏せたままの写真立てだけが残っていた。手を伸ばしかけると、机のライトがミラの腕の影を写真立ての上に落とした。ミラはその手で、灯りを消した。起こすのは、今夜ではない。
暗くなった部屋で、灰色のカーディガンを羽織った。袖口を、手首で一度折り返した。
外廊下に出て、鍵を二度確かめた。
鉄の階段を降りるあいだ、足音が夜の道に響いた。白い車の横の黒いコートは、誰も動かない。その中に、先週玄関まで来た顎の四角い男がいた。男は手帳を開いて、ミラが階段を降りきるまでペンを動かさなかった。襟もとの無線が小さく鳴った。追うな、見るだけでいい、行き先は拾える、と聞こえた。
肩をすくめないように歩くと膝が自分のものでないみたいに固くなり、黒いコートの一人の前を過ぎるたびにうなじの産毛が一本ずつ起きて、次の一人の前でまた同じように起きた。
誰にも呼び止められないまま、ミラは駅の方へ歩いた。呼び止められないことの方が、怖かった。
行き先は、拾える。鞄の底で、スマホが一枚ぶん重くなった。
歩きながら、電源に指をかけた。切れば、ニルからの一行も届かなくなる。指は、ボタンを押しこまないまま離れた。
坂の下のコンビニの前を通った。車止めのところで、いつもの茶トラが丸くなっていた。顔を上げてミラの足もとを見ると、植え込みの奥へ走っていく。
坂の途中で、街灯と街灯のあいだの暗いところに入った。
胸の中で、とくんと鳴る。遅れて、もう一つ。
横断歩道の手前でミナコに言われた夜から、二つの音は一度も揃っていない。今夜は二つ目が、一つ目の背中にぶつかりそうなほど近かった。
ミラは立ち止まって、カーディガンの上から胸に手を当てた。
手のひらの下に、縦に一本の古い傷の盛り上がり。
三年前に病院から帰ってきたときには、もうそこにあった。誰に縫われたのかは、覚えていない。覚えていないことにしてから、指で触れたことはなかった。
指先で、その線を上から下へなぞった。
傷のすぐ下で、二つ目の音が一つ目を追いかけていた。




