第17章 境界
白い砂の線をまたいだとたん、背中のほうで影がほどけた。
振り返ると、クロが線の外に座っていた。前足をそろえ、鼻先を砂に寄せたまま一歩も入ってこない。
乗り継ぎの駅の待合室には、鍵がかからなかった。胸の二つの音を数えながら、始発を待った。一つに戻っていてほしかった。どちらの一つに戻ってほしいのかは、自分でも決められなかった。
杉の斜面ばかりの線路を揺られて、屋根とベンチしかない『鈴杣』の駅に降りると、祖父が魔法瓶を膝に抱えてベンチに座っていた。板に降りた霜が、祖父の座っているところだけ溶けて黒く濡れていた。夜のうちに山を下りて、待っていた人の跡だった。
「……冷えたろう」
「……うん」
港の町の大人たちは真っ先にミラの足もとを見た。祖父の目は、ミラの顔の上から動かなかった。魔法瓶の蓋の茶は、舌の付け根が縮むほど渋かった。
その祖父が今、線の外のクロを見下ろしている。
クロの目はミラを素通りして、暗い廊下の突き当たりの襖に向いていた。フー、と喉の奥から息が漏れる。橋の下で聞いたのと同じ声。
軒の風鈴が、三つ鳴った。
「……まだ、猫の真似してるだけだ」
まだ、のあとに何が続くのかミラは聞けなかった。聞けば、祖父はたぶん答えてしまう。
三和土に落ちた影は、明かり取りの窓に見合った薄さに戻っていた。羽織っていたものを一枚はがされたように、体の片側が軽い。
「布団は、物置だ」
裏手の物置には、布団の手前に段ボールの箱が鴨居に届くほど積みあがっていた。どれも封が切られていない。
『らくらく背のびーる』『ふみふみ足裏道場』『寝たまま腹筋 もうひと息』
赤い『特別価格 九千八百円』の文字が、埃で半分かすれている。下の箱へ目を移すたびに値段を足して、五万を超えたところでやめた。
「……これ、使ってるの」
「電話に出る人がな。毎回、お体お大事に、と言う」
答えになっていない。祖父が布団を引きずり出す。腰に手を当てて、うめいた。
「……開けておけば、よかった」
こらえる前に、ミラの鼻から息が抜けていた。
布団は仏間に敷いた。仏壇の脇の棚に、写真立てが一つ伏せてある。裏の脚はたたまれずに、天井を指して立ったまま。
ミラの部屋の棚のも、同じ伏せ方をしている。脚だけはたたまない。たたんでしまえば、もう起こさないと決めたことになる。
「……息子だ」
祖父はそれだけ言って、廊下へ出ていった。
父だった。
立ったままの脚から、ミラは目を離せなかった。指先が、山の朝の冷たさとは別のところから冷えていく。
夜、祖父の寝息が障子越しに届いていた。
廊下の突き当たりの襖の向こうで、かたん、かたんと音がした。鉛筆が机を転がる、角が板を打つ音。
音は、机の端に届く手前でぷつりと途切れた。落ちる音は、いつまで待っても来ない。
襖の下の隙間から細い灯りが漏れて、その筋の中を影が一つゆっくり横切った。腰の高さで、そこから上がない。
この家には、祖父しか住んでいないはずだった。布団の中で、ミラは息の音まで小さくした。
玄関の戸の向こうで、クロがまだ唸っていた。
同じ木曜の夕方、街でいちばん高い建物の奥の部屋。
月曜にエレベーターで笑っていた男は、机の前に立たされていた。机の向こうで、丸い眼鏡の小太りの男がハンカチでレンズを拭いている。
「念のため申し上げますと、港の対象は、影の方でした。火の方ではありません。数え違えて、新聞に載る騒ぎにした。責任は、取っていただきます」
「いや、あれは、火の方が掴んだんで。な?」
「目撃者の証言にも、ございました。手の甲に、縫った跡。線路みたいに、と」
男の手が、机の下へ引っこむ。
薄いカードが机の上を滑ってきた。印字された番号の上に、黒い線が一本。
「本日付で、番号はお返しいただきます。明日からは、地下の洗い場をお願いします」
次の朝、地下駐車場の隅で男はバケツに雑巾を浸した。白い車が、端から同じ向きで並んでいる。
一台目の窓を拭いた。二台目の窓を拭いた。口の中で何かを足そうとして、唇だけが動いた。足すものが、もう、なかった。
結束バンドの靴紐が、床の水を吸って灰色になっていた。
仏間の障子が、まだ夜明け前の青をしていた。
家の中に、入れてもらう。布団を出る前に、そう決めた。
玄関の戸が半分開いて、その向こうに祖父がしゃがんでいた。ブリキの茶筒の中身を、口の欠けた漏斗に注ぐ。ひと筋に落ちる砂で、昨日の線をなぞっている。茶筒を支える左手の小指は、第一関節から先がなかった。
灰色の砂が漏斗を離れて土に触れたとたん、端から白く変わっていく。
線の外の踏み石で、クロの黒い背中におりた霜は、溶けないまま毛に貼りついて、朝の光を弾いている。
「……入れてあげて」
「人でないものは、入れん線だ」
「クロは、猫だよ」
言った声が、自分の耳にも軽く聞こえた。溶けない霜を、たった今見たばかりだった。
クロが線に鼻先を寄せて、くしゅんとくしゃみをした。砂粒がいくつか外へ跳んで、白い線の真ん中に針の穴ほどの綻びができる。
祖父の草履が先に動いて、足の先で砂を寄せ、綻びを埋めた。クロは前足で自分の鼻をこすった。猫のする仕草を、ひと呼吸遅れてなぞる手つきだった。
「この砂、何」
「境界、という因子だ。そこらの砂に、線になれと言い聞かせる。砂は聞き分けがいい。人よりはな」
「クロを入れたら、どうなるの」
祖父は線の外のクロと、線の内側のミラの足もとを見比べた。
「混ざると、戻らなくなる」
「何と、何が」
「あれと、お前だ」
胃の底に、冷たい水を一杯流しこまれた。
「……名前、つけたか」
「クロ」
祖父の白い眉が、わずかに持ち上がった。
「なら、まだ大丈夫だ。名前のあるものは、名前の形から出られん。猫の名前で呼べば、あれは猫の真似をする。くしゃみもする」
まんまじゃん、とニルに笑われた名前だった。
ミラは敷居に腰を下ろして、右手だけを線の向こうへ差し出した。
クロが立ちあがって、霜のついた額をミラの手のひらに押しつける。コンビニの駐車場で、茶トラがそうしたのと同じ動き。伝わってきたのは、温度のない重さと溶けた霜の水だけだった。
入れてあげてと言った口のまま、ミラの体の片側はまだ軽かった。軽いのを手放したくない。手のひらの上で、クロの額が重くなっていく。
朝ごはんは、しらすと味噌汁だった。ミラはしらすを一つまみ、自分の茶碗から小皿に取り分けた。クロの座る踏み石の上に置く。
「来た人には、出すんだって」
クロは小皿に鼻を寄せた。食べない。それでも、小皿の横から動かない。
振り向くと、祖父が二枚目の小皿を持って立っていた。何も載せないまま、クロの小皿の隣に並べる。誰の分なのかは、言わなかった。
縁側の端の風鈴の真下でだけ、スマホの電波が一本立った。
その一本の向こうに、ニルの『来たら、すぐ言え』がある。ここに立てば、ニルはミラが無事だと知る。何も言わずに出ていったことも。
アパートの前に並んでいた黒いコートの人たちよりも、ニルから届く文字の方が怖かった。
ミラは一歩後ろへ下がった。電波の印が、また消えた。
廊下を戻る途中、突き当たりの襖の前で祖父が振り向いた。
「そこは、開けるな。人を一人、置いてる」
「仕事で、出たり入ったりしてる。今夜は戻る」
「……誰」
祖父は襖の引き手に目を落としたまま、一言だけ足した。
「お前を、ずっと見てたやつだ」
ミラは鞄の中に手を入れて、切手のない封筒の角を指で探った。




