第18章 失敗した方
「これ、おじいちゃんの」
卓袱台の上で転がしていた鉛筆を、ミラはつまみ上げた。削り跡が几帳面にそろっていて、指でつまめなくなるほど短い。半額の棚に最後の一個まで残った品物みたいに、使い切られる手前の顔をしていた。
「……あいつのだ。鉛筆を、最後まで使うやつでな」
祖父は向かいで、湯呑みの縁を親指でなぞっていた。柱時計が九時を打ってから、ずいぶん経つ。卓袱台の真ん中には、ミラの置いた切手のない封筒がある。縁側のガラス戸の外は暗い。家を巡る白い線のさらに外の庭先に、クロが丸くなっていた。
橋の下で封筒のことを聞いたとき、返ってきたのは「ああ」の一言だけだった。今夜は、その先を聞く。決めたはずなのに、鉛筆を転がす指が止まらない。
裏口の戸が開く音がした。
足音が廊下を渡ってくる。片方の足を、わずかに引きずる音。
襖が開いて、男が入ってきた。着古したコートに、白に近い灰色の髪を後ろで雑に束ねている。頬はこけて、無精ひげが顎を覆っていた。
橋の下にいた人だった。
膝が卓袱台の裏に当たって、湯呑みが鳴った。立とうとしたのか逃げようとしたのか、自分でも分からない。昨夜襖の向こうを横切った腰までの影が、今は灯りの下で人の形をして立っている。
橋の下では、老人に見えた。灯りの下で見ると、祖父よりずっと若い。見すぎると、こうなる。橋の下で聞いた言葉の意味が、顔の上に書いてあった。
ただ一つ、橋の下にはなかったものがある。コートの襟もとに、紺のネクタイが締めてあった。
男はミラを見て卓袱台の封筒を見て、ネクタイの結び目に指をかけた。
「……仕事帰りなので」
「ネクタイを締めると、人に見えるんだそうだ」
祖父がぼそりと言った。
「御影さん。それは言わない約束です」
男は内ポケットから名刺入れを出し、一枚を両手でミラの前に置いた。
『私立探偵 ロムス』
裏返すと、小さな字で『浮気調査・人探し・ペット探し 承ります』とあった。ミラは思わず、ガラス戸の外の黒い塊に目をやった。
ロムスも、同じ方を見た。
「猫は、探さなくても見つかっています」
「……探偵、さん」
「調べものと、人探しをしています。ミラさんのことは、仕事ではありませんが」
ガラス戸の向こうで、クロが起きあがった。
背中の毛が、首から尻尾の先まで順に逆立っていく。耳を伏せ頭を低くして、ガラスの手前の白い線ぎりぎりまで寄ってくる。目は、ミラを見ていない。まっすぐにロムスを見ていた。
フー、と喉の奥が鳴った。
「嫌われてるんです」
ロムスはクロに背を向けたまま、座布団に膝をついた。
「どうして」
「あれは、押さえつけられるのが嫌いでしょう。私は、見るだけで押さえつけてしまうので」
ミラは、封筒をロムスの方へ押しやった。
「宛名は、自分が書いたって。橋の下で」
ロムスは封筒を手に取り、表の宛名をしばらく眺めた。
「ええ。宛名だけは」
「中の字は」
「印字です。手で書くと、書きすぎるので」
何を書きすぎるのかと聞く前に、卓袱台の上で鉛筆が転がった。
ミラの肘が当たったのだった。かたん、かたんと角が板を打って、鉛筆は端へ向かっていく。
端の手前で、ぷつりと止まった。
傾いた形のまま、半分を宙に出して落ちない。昨日の夜に襖の向こうから聞こえたのと同じ音で、同じところに留まっていた。
ロムスの目が、その鉛筆に注がれていた。
「すみません。癖で」
ロムスが顔を上げて、ミラを見た。
橋の下では足もとしか見なかった目が、今は顔を見ている。近くで見ると、両方の白目に鉛筆の芯でつついたような黒い点が滲んでいた。その目に見られた瞬間、ミラの右腕が重くなった。
肘から先が急に他人のものになって、卓袱台に置いた手を持ち上げようとしても指一本浮かず、息を吸っても肺が途中までしか膨らまなかった。
胸の中の二つの音だけが、変わらず鳴っている。
このまま重さが胸まで来たら、二つ目の音も止まるのだろうか。止まれば、一つに戻れる。そう考えたとき、怖いより先に待っていた。背中の汗がすっと冷えた。
待っている足もとで、影の方が先に動いた。
畳の上を這って、ロムスの影の端に触れる。橋の下で見たのと同じ、腰のところで途切れた影だった。
ミラは動かない腕のかわりに、そちらへ力を入れた。押した。
ロムスの首が、目の奥を指で弾かれたように小さく揺れた。
腕が軽くなった。ミラは卓袱台から手を引きはがし、膝の上で握りしめた。握った指の中に、痺れが砂みたいに残っている。
「……押し返されたのは、初めてです」
「ロムス」
祖父が短く呼んだ。ロムスは、手のひらで自分の目を覆った。
「……見過ぎた。人を見ると、こうなります。止めたくないものまで、止めてしまう」
押さえつけてしまうとさっき言った意味が、まだ痺れの残る腕でわかった。
「……観測を続けて、って。どうして、あんな手紙」
「見られているものは、形を変えにくいんです。あなたが見ているあいだ、あれは猫の形のままでいる」
目を覆った手の下で、ロムスの口だけが動いていた。
「形だけです。影は、別です」
「港の町に仕事の部屋を借りて、ここと行き来しながら、三年、あなたの影を見てきました。けれど、私が見ていられない夜もある。その夜の分を、あなたに頼みたかった」
三年。写真立てを伏せてからと、同じ長さ。誰にも見られていないつもりで袋の上で食べてきた夜のどこかに、この人の目が足もとの暗がりのように張りついていた。首の後ろの産毛が、一本ずつ起きていく。
「……『後ろ』の夜から、『そう』しか言わなくなった人は」
声が、自分で思っていたより先に出た。
「怖さを、全部持っていかれたんです。あれに。生きてはいます。もう、何も怖がれないだけで」
持っていかれた。
あの夜、棚から降りてきて膝に乗った重さが戻ってきた。片手に乗りそうな体に、ぎっしり詰まっていたもの。あの中に、知らない人の怖さが入っていた。
路地の人も、と喉まで来た。ミラは口を閉じた。舌の付け根に、言葉がくっついたまま乾いていく。
ロムスは手を下ろさずに、指の隙間から卓袱台の木目を見ていた。
「突かれたのと、食べられたのは、違います」
ロムスはそれ以上を足さなかった。膝の上で、つまようじを投げた方の指先だけが冷えていった。
それから、ミラにではなく自分の膝に向かって、ロムスは小さく言った。
「俺は、失敗した方だ」
丁寧だった声が、そこだけ剥がれていた。
ロムスは手を下ろし、宙に浮いたままの鉛筆をつまんで卓袱台の真ん中に横たえた。もう、転がらなかった。
祖父は湯呑みを持ったまま、一口も飲まなかった。ガラス戸の外で、クロはまだ唸っていた。
失敗した方、という言い方をミラは頭の中でもう一度なぞった。
方、と言うなら、もう一方がいる。




