第19章 ノート
土曜の朝、ミラは縁側に出た。ロムスは夜明け前に仕事へ出たらしく、奥の部屋の襖は閉じている。祖父は縁側の端で、湯呑みを両手で包んでいた。風鈴の真下、電波が一本だけ立つ場所だった。
水曜の夜の『いる』は、ここから打たれた。三年前の『いつでも来なさい』も、たぶんこの板の上から。
お父さんとお母さんのことを、三年、誰にも聞かなかった。今日は、聞く。ゆうべは布団の中で、最初の一言だけを何度も選び直した。
縁側の板は、朝の冷えをまだ溜めていた。ミラは一人分の間をあけて隣に座った。
スマホを出すと、画面の隅にその一本が立っていた。いちばん下に、ニルの『来たら、すぐ言え』が残っている。
打った。
『来た』
局が来た。ここに来た。どちらにも読める二文字だった。続きを打とうとした親指が、画面の上で浮いたまま降りてこない。
送った。既読がつく前に、画面を伏せた。
「三年前、何があったの」
言ってしまうと、喉の奥が乾いた。唾を飲もうとして、飲むものが見つからない。
祖父は湯呑みを置いた。庭の白い線の向こうで、クロが日だまりに寝そべっている。風鈴が二度鳴るあいだ、祖父は何も言わなかった。
それから黙って立ちあがり、家の奥へ入っていった。
戻ってきたとき、祖父は風呂敷包みを抱えていた。藍色の地に、白く染め抜いた文字がある。
『健康通販 ゆうゆう館 ご愛顧感謝』
「……特典でついてきた」
聞く前に、祖父が言った。ミラは唇を噛んで、包みを膝に受け取った。噛んでいないと、口の端が上がってしまいそうだった。
「俺の口からは、言わん」
「どうして」
「言えば、そうなる」
膝の上の包みは、思っていたより軽かった。三年分の答えが入っているにしては、薄すぎる。言葉で聞かされるより紙で渡される方が、まだ途中で閉じられる。ミラは結び目を握りしめた。
祖父は湯呑みを持って、縁側の反対の端へ移った。ミラに背中を向けて、庭の線を見ている。
結び目をほどくと、大学ノートが一冊出てきた。
角が丸く擦り切れて、表紙の紙が毛羽立っている。題も名前もない。真ん中に鉛筆で、目の形が一つ描いてあった。まぶたを閉じて、まつげを下に向けた目。
表紙をめくったところで、ミラは息を詰めた。
止め、はね、払いが几帳面にそろっている。どの字も右へわずかに傾いていて、一画も書き直した跡がない。
知っている字だった。
小さいころ、ミラは深海魚の図鑑を声に出して読むのが好きだった。読めない漢字に行き当たるたびに、母は髪に挿した削りかけの鉛筆を抜いて、ミラ、これはね、と言いながら余白へこの字でふりがなを振ってくれた。ミラが読みあげているあいだ、母は鉛筆を止めてそれを聞いていた。
ページには、表が引いてあった。左の欄は『被験者』。その下の段には、名前の代わりに丸や三角や見たことのない記号が並んでいる。
表のいちばん上に、一段だけ離れて引かれた欄があった。
『零号』
その欄にだけ、記号がない。かわりに、消しゴムで何度もこすった跡があった。紙が薄く毛羽立ち、筆圧のへこみだけが二文字ぶん残っている。
指でなぞっても、読めなかった。読めない字の前で、ミラは首を傾げた。これはね、と言ってくれる声はどこからも来ない。
最初の一文字のへこみには、短い横線が三本上から順に並んでいた。ミラはそこで指を離した。指先が、紙より冷たくなっていた。
縁側の向こうの端で、祖父がこちらを見てすぐに目を逸らした。
ページをめくった。
細かい数字と、ミラには分からない言葉が隙間なく続いている。どの行も、止めとはねのそろった母の字だった。
被験者という欄を引いたのも、この手だった。
胸の二つ目の音が、一つ目を追い越しそうなほど速くなった。
ここで閉じたかった。閉じれば、図鑑にふりがなを振ってくれた手のままで母を覚えていられる。
ミラは次のページをめくった。
『分けるな』
ページの真ん中に、それだけが書いてあった。二本引かれた下線のところで、鉛筆の芯が紙を破っている。
何を、とも、誰が、とも書いていない。研究の注意書きのようにも、誰かへの頼みごとのようにも読めた。
ミラは空いている方の手を胸に当てた。手のひらの下で、一つ目と二つ目がずれたまま鳴っていた。
後ろのほうのページに、色の違う字があった。
鉛筆ではなく、青いボールペン。角張った字が、母とは逆の左へ傾いている。
『榊恭介』
ふりがなは、振られていなかった。さかき、きょうすけ、とミラは口の中で読んだ。
インクは、まだ紙の上でかすかに光っていた。ほかのどの字よりも新しい。
「おじいちゃん、これ」
祖父は振り向かずに答えた。
「……俺の字だ。水曜の夜に書いた」
ミラが『今いる?』と打った夜だった。
「お前の父さんが、医学校で教えた男だ。俺が見てやれなくなったら、そこへ行け」
見てやれなくなったら、の先を祖父は言わなかった。風鈴が鳴っても、祖父の背中は動かない。湯呑みの湯気だけが、横へ流れていた。
三日前まで返事も打たなかった相手の背中が縁側の端で一回り小さく見えて、鼻の奥がつんとし、ミラはノートの角を指が白くなるまでつまんでいた。
最後のページは、ほとんど白かった。
下の隅に、鉛筆の字が一行だけあった。母の字だった。急いで書いたのか、いつもの傾きがほかのページより深い。
『クロを先にするな』
ミラは最初の二文字から目を離せなかった。
コンビニの前の街灯の下でニルに名前を聞かれて、口から出た名前だった。まんまじゃん、とニルが笑った。ハムスターなら『ハム』だろ、と。
あの夜、その名前を思いついたのは、自分だったはずだった。
クロのことも、胸の二つ目の音も、伏せたままの写真立ても。全部、三年前の夜の中にあった。
白い線の向こうで、クロが日だまりから頭を上げた。




