第20章 有志
縁側の端に伏せておいたスマホが、板の上で震えた。
風鈴の真下の、電波が一本だけ立つ場所だった。日曜の昼の光が、板の木目を白く浮かせている。ミラは膝で這っていって、画面を起こした。
『来た』の下に、ニルの返事が並んでいた。
『どこに』
『なにが』
『いや いい』
『生きてる?』
最後の一行だけ、送られた時刻がほかより遅かった。打っては消した時間が、そこに挟まっている。
打ち直した跡も待たせた間もない、祖父の二文字を思い出した。
『いる』
既読は、すぐにつく。
『ならいい』
『アイスはツケな。利子つける』
百二十八円の利子を、ミラは指を折って計算しかけてやめた。何割にしても、ニルは受け取らない。
どこにいるのかは、まだ書けなかった。書けば、ニルは来る。まだ皮膚の薄い右手で、電車を乗り継いで。来てほしいと思っている自分の方が、来てほしくない理由より大きかった。だから、書かなかった。
ミラはスマホを胸に押しあてて、元の場所へ戻った。
縁側には、昨日の風呂敷包みを置いてきていた。今日は母のノートを、一枚目から順に読む。昨日は、拾い読みしかできなかった。
包みが、なかった。
頭の上で、瓦が鳴った。
屋根の端に、猿が一匹しゃがんでいた。藍色の風呂敷を口にくわえている。『ゆうゆう館』の白い文字が、猿の顎の下で揺れていた。
「……毎年、この時期に来る」
祖父が湯呑みを持ったまま屋根を見上げた。
「先週は、通販の箱を一つ持っていかれた」
猿は風呂敷をくわえたまま、棟の方へ一歩ずつ上っていく。あの向こうへ下りられたら、杉林だった。
盆の上の漬物に添えたつまようじ立てに、ミラの手が伸びていた。
指が、そこで止まった。
影に投げれば、沈む。路地では、相手ごと消えた。
細い木の先が、こちらを向いている。指の腹に、路地の夜の黒い糸を巻いたつまようじの冷たさが戻ってきて、耳の奥で自分の血の音が大きくなり、胃が朝のしらすごと縮んだ。
庭の白い線の外で、クロの影の縁から、細いものが一本這い出した。
関節がある。名付けの夜、椅子の背を、こつ、と叩いたのと同じ形だった。それが踏み石を二つ越えて、線の白さを確かめるように、砂の手前で止まっている。
二百九十八の半分。数えたのに、脚は引っこまなかった。
猿は、ノートを盗んだだけだった。消えていいものなんて、屋根の上には一つもない。
見られているものは、形を変えにくい。ロムスはそう言った。あれは猫の形のままでいる、と。
母の字は取り返したい。猿は、消したくない。指は、つまようじ立てから離れなかった。
「おじいちゃん。クロを見てて。目、離さないで」
祖父は湯呑みを置いて、ミラの顔を見た。湯呑みの湯気が細くなって消えるまで、その目は動かなかった。それから、庭の白い線の外で丸くなっているクロへ移った。
クロの耳が、ぺたりと伏せた。見られるのが嫌いな猫の顔をしていた。
砂の手前の脚が、すっと影の中へ戻った。
ミラは屋根の瓦に落ちた猿の影だけを見た。昼の光で、輪郭がくっきりしている。風呂敷の端まで、影になっていた。
投げた。
つまようじは影に落ちて半分まで沈み、そこで止まった。
猿が、止まった。
片足を上げたまま、風呂敷をくわえたまま、棟の手前で動かなくなった。尻尾だけが、宙で固まっている。目だけが、きょろきょろと動いていた。
消えなかった。
縁側の板についた手のひらに、木目が食いこんだ。止めていた息が、歯のあいだから細く漏れていった。
祖父が物干し竿を取ってきて先で風呂敷の結び目を引っかけると、包みは竿を伝ってミラの腕の中に落ちてきて、中でノートの角が硬く当たった。
「抜いてやれ」
ミラは竿の先で瓦に刺さったつまようじを払った。
猿はぎゃっと一声鳴いて跳んだ。棟の向こうへ消える前に、抱えていた何かを落としていく。庭の真ん中に、四角い箱が転がった。
『ふみふみ足裏道場』
先週持っていかれた箱。封は切られていない。物置には、同じ箱がもう一つ積んである。
「……返しに来たか」
祖父の声が、わずかに笑っていた。
「二つ、買ったの」
「……二つ目は、電話の人が勧めた」
右の人差し指の先が白い。第二関節のところまで、血の色が引いている。胸の中で二つの音が、追いかけっこのように速くなっていた。
庭のクロは、猿の消えた棟の向こうを見ていた。捕れない大きさの獲物を見送る、猫の目だった。
見ていてくれる人がいれば、止まるだけで済む。
路地の夜、クロを見ていた人は誰もいなかった。ミラ自身も、見ていなかった。見ないことにして、投げた。
喉の奥が、ゆっくり詰まっていった。考えるのは、やめなかった。三度目は、やめないと決めていた。
つまようじを投げた手で、ミラはノートの包みを抱えなおした。
祖父が物干し竿を立てかけて、包みの結び目をほどくのを手伝った。結び目にかかった左手の小指は、第一関節から先がない。
「その指、どうしたの」
祖父はほどいた結び目を、指のあいだで転がしていた。軒の風鈴が鳴って、鳴りやんで、もう一度鳴る。
「戦だ。三十五年前の」
縁側に腰を下ろして、冷めた茶をすすった。
「因子の事故が、あちこちで起きてた。上の連中は、死んだ数を数えて、隠した。それに腹を立てた連中がいた。因子より大きなものを扱える連中だ。自分らを、有志と呼んだ」
「戦争、したの」
ミラの中で戦争は、写真でしか見たことのないずっと昔の、知らない人たちのものだった。その中に、目の前で湯呑みを持っている手が入っていた。
「した。俺は、どっちにもつかん医者の集まりにいた。撃たれた方を、どっちでも縫った」
祖父は欠けた小指を曲げてみせた。
「縫ってる最中に、弾が来た。どっちのだったかは、知らん。線を引くのを覚えたのも、そのころだ。ここから先は撃つな、と砂に言い聞かせた」
縫ったという言葉が、カーディガンの下の縦の傷の上で引っかかった。口を開きかけて、閉じた。
「どっちが勝ったの」
「有志だ。そいつらが、管理局を作った。隠されるのが嫌で戦った連中がな」
風鈴が鳴った。
「……今は、隠す側だ」
出張という一語が、屋台の湯気と一緒に浮かんだ。ミラはノートの表紙の、閉じた目の印を見た。
「お父さんとお母さんも、管理局と、何か」
祖父は湯呑みを置いて、立ち上がった。
「茶が冷めた」
それだけ言って、台所へ入っていった。
「ロムスさんは」
背中に聞くと、足音が止まった。
「局で、見る仕事をしてた。見すぎて、帰り損ねた」
台所の戸が閉まった。
縁側には、祖父の湯呑みが置いたままになっていた。茶は、半分残っていた。




