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名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第2章 境界の家

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第21章 三つ目

座布団を一枚、玄関の上がり框まで引きずってきて、ミラはその上に正座した。


日曜の夜は、雨になった。夕方から降りだした雨は暗くなるほど太くなって、瓦の上で途切れなく鳴っている。戸のすりガラスに、軒下の灯りが滲んでいた。


戸を指二本ぶん開ける。踏み石の上にクロがいた。白い線のすぐ外、祖父が並べた二枚の小皿の横で、前足をそろえている。雨は軒で切れて、黒い背中までは届いていない。


見ていてくれる人がいれば、止まるだけで済む。屋根の上の猿で、それが分かった。


だったら今夜は、自分が見ている。ロムスが手紙で頼んだことを、頼まれたからではなく自分で選んだ。路地の夜のぶんが、一晩で埋まるとは思っていない。


見ているあいだ、クロは猫の大きさのままだった。目が合うと、クロの方が先にふいと横を向く。


「見られるの、嫌いなの、知ってる」


口に出すと、クロの尻尾の先が、踏み石をひとつ叩いた。


踏み石の端に、雨に追われたカエルが一匹跳びあがってきた。手のひらに乗るくらいの、土の色をしたやつだった。


クロは動かなかった。ミラが見ているあいだ、前足をそろえたまま、ひげ一本揺れない。


動いたのは、影の方だった。


踏み石に落ちたクロの影の縁が、するりと伸びた。カエルの頭の先まで届いて、上半分を呑んだ。


外に残った後ろ脚が、石を蹴った。蹴るたびに、影の中からくぐもった鳴き声が一つずつ聞こえた。水の底で鳴いているような声だった。


クロは香箱を組んで、目を細めていた。黒い背中が、きゅっと縮む。戻る。また縮む。


じゃれているのでは、なかった。


後ろ脚が止まると、影はカエルを放した。カエルは腹を見せたまま、動かない。その下の影だけが、薄墨みたいに淡かった。


見ていたのに、呑まれた。形のままでいるというのは、体のことだけだった。


こわい、と思ったとたん、クロの影が踏み石を一つ越えて、白い線の手前まで伸びた。二百九十八の半分。三百八十の半分。数えると、影は止まった。戻りは、しなかった。




裏口が開いて、ロムスが帰ってきた。雨で仕事が早く終わったらしい。濡れたコートの肩から、雨と杉の匂いがした。手に提げたコンビニの袋から、おにぎりの包みがのぞいている。赤いシールが貼ってあった。


「夕飯です。乗り換えの駅の店で」


「……半額の時間、知ってるんですね」


「探偵ですから」


ロムスは上がり框の端に、ミラから一人分あけて腰を下ろした。包みのシールを指でつまんで剥がしかけ、ミラの方を見た。


「集めているんでしょう。ノートに」


どうして知っているのか、と聞きかけてやめた。三年見てきた、とこの人は言った。三年ぶんの夜のどこかで、ノートにシールを貼る手も見られていたのだろう。首の後ろが、じわりと熱くなる。


「……勝ちの、記録です」


シールを受け取ると、ロムスは包みを開けながら言った。


「私のは、負けの記録です。報告書を毎晩、手で書いているので。依頼の猫は、たいてい見つかりません」


冗談なのかどうか、ミラには分からなかった。ロムスは海苔が湿って米に貼りついているのを見て、小さくため息をついている。百十円が五十五円。そのかわり、海苔がしけっている。ミラなら、ノートに貼るかどうか三秒は迷う。


橋の下で膝の上にあったのも、同じ包みだった。あれは、この人の夕飯だった。夕飯を膝に載せたまま、ミラの影を見ていた。


シールは、カーディガンのポケットにしまった。勝ったのが誰なのか、まだよく分からない。


ロムスはおにぎりを食べ終えると、包みを小さく畳んでポケットに入れた。それから戸の外のクロを見ないようにして雨の方を向いた。


「見ていてくれるなら、私は見なくて済みます。……ありがとうございます」


ミラは首を傾げた。見ていても、カエルは呑まれた。礼を言われることを、した覚えがない。


ロムスの目が、踏み石の上の小皿に落ちた。一枚には昨日のしらすが乾いて残っている。もう一枚は、空のまま。


「あの皿は、誰の分ですか」


「おじいちゃんが置いたんです。誰の分か、言わなかった」


言いながら、ミラはその空の皿を数に入れてみた。クロの分が一枚。もう一枚は、ここにいない誰かの分。そこまで数えて、指を折るのをやめた。


ロムスは空の皿を見ていた。軒から落ちる滴が三つ、踏み石の端で跳ねるあいだ、目を離さない。それから何も言わずに逸らした。




雨が強くなった。


軒から落ちる水が細い簾になって、白い線の向こうを隠したり見せたりする。祖父の寝息が、廊下の奥から届いていた。ロムスは柱に背中を預けて、目を閉じている。


十二時を、柱時計が打ち終えたころだった。


クロの耳が、ぴんと立った。


顔が、雨の降る暗い庭の方を向く。毛は逆立たない。唸りもしない。ロムスを見るときとは、まるで違う目だった。


ミラも、同じ方を見た。


誰もいない。


雨の音の中に、ぴた、と別の音が混じった。濡れた土を、裸足で踏む音。


ぴた。


ぴた。


庭の土に、くぼみが一つできた。小さな足の形。指が五本、ちゃんとある。そこに黒ずんだ水が、じわりと溜まった。


次の一つが、その先にできた。


雨の匂いに、潮の匂いが混じる。杉の匂いしかしないはずの山の中で、足跡の水だけが港の岸壁と同じ匂いをさせていた。


歩幅が狭い。ミラの手のひらより、わずかに大きいくらいの足だった。


足跡は、まっすぐ玄関の方へ来た。


立てなかった。指が上がり框の縁をつかんでいて、爪のあいだに木のささくれが刺さっても離れない。胸の中の二つの音が、一つ目も二つ目も、息をひそめるように遅くなった。


誰、と言いたかった。喉の手前で、声の形のまま止まった。


小さいころの自分の足も、このくらいだった。そんな考えがどこからか浮いてきて、ミラは急いで沈めた。


白い線の手前で、足跡は止まった。


爪先を、こちらへ向けたまま。


最後の二つは揃っている。そこに立って、玄関の中をのぞきこんでいる誰かの足。背丈を想像しようとして、やめた。ずっと下の方を見なければならない背丈だった。


泥の上で、足跡の指がきゅっと縮んだ。冷たい土の上に、裸足で立っている足。


寒い、と思った。思ったとたん、戸を開けて座布団を差し出したくなった。膝だけが前へ出かけて、手の方は上がり框から離れようとしなかった。


クロが、その足跡の方へ、鼻先をそっと伸ばした。においを嗅ぐように。それから、ゆっくりと頭を下げた。


クロが誰かに頭を下げるところを、ミラは初めて見た。


背中のうしろで、ロムスが目を開け、立ち上がる気配がした。


足跡にたまった黒い水が、かすかに揺れている。小さな肩が震えたら、こういう揺れ方をするのかもしれない。


ロムスの声が頭の上から落ちてきた。


「三つ目か」


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