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名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第2章 境界の家

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第22章 白い部屋

手首のベルトの金具が、ちりと鳴った。


白い天井。四角い灯りがまぶしい。動かそうとするたびに、ゆるいベルトが手首の骨に引っかかる。


消毒液の匂いがした。


誰かの白い袖口が目の前を横切って、青いインクの染みだけははっきり見えたのに、持ち主の顔は灯りの向こうで白くつぶれていた。扉の上に、絵が一つ描いてある。まぶたを閉じた目の形。


隣のベッドで、誰かが泣いている。カーテンの向こうで、小さい声が同じ言葉を繰り返していた。


こわい。


こわい。


こわい。


胸の真ん中に、冷たいものが当てられた。金属の、平たいもの。泣かないで、と言おうとした。首も口も、動かなかった。




目を開けると、仏間の天井だった。


雨は上がっている。胸の二つの音は、夢の中と同じ速さで打っている。手首をさすった。ベルトの跡は、どこにもない。


玄関へ行くと、白い線の手前の泥に、足跡が二つ揃って残っていた。黒い水は乾いて、くぼみの底だけが墨を引いたように黒い。


ロムスは、今朝は日が昇る前に仕事へ出ていた。祖父はもう線を引き直していて、足跡の前のところだけ砂を何度も重ねて太くしている。


踏み石の端に、ゆうべのカエルがまだいた。腹を返したまま、影だけが薄い。祖父はそれを指でつまんで、草むらへ放した。


「あれは、怖がられると太る」


祖父は猫の話をするように言った。


「食うのも、怖がらせてからだ」


朝の光の中で、線の外のクロの影は、踏み石二つぶん猫より長かった。


足跡の前にしゃがんだ。夢の隣のベッドの声は、子どもの声だった。くぼみの幅を指を広げて測りかけて、途中で手を引っこめた。あの声の小ささと、同じだった。


線の外からクロが来て、足跡の縁を前足でそっと触った。爪は一本も出していない。




昼過ぎ、縁側で祖父の背中に聞いた。


「胸の、縦の傷。これ、誰が縫ったの」


祖父は茶筒の砂を手のひらに出していた。最後のひと粒が落ちるまで、祖父は口を開かなかった。


「……それは、俺が言うことじゃない」


「じゃあ、誰が言うの」


返事はなかった。祖父は手のひらを払って、ノートの最後のページの方をちらりと見た。青いボールペンの名前。見てやれなくなったら、そこへ行け、と祖父は言った。


見てやれなくなったら。祖父の声の中で、その日はもう順番を待っている。聞けば、祖父はもっと黙る。それ以上は聞かなかった。




夕方、風鈴の下でスマホが鳴った。


震えるのではなく、鳴った。着信だった。画面に、ニル、と出ている。電話で話したことは、一度もない。


「一人で行くなって言ったろ」


出たとたん、声がした。


「全員って言ったよな、俺。ファミレスで。お前、うなずいてたよな。いちばん最後に」


「……うん」


「黒コートが、お前んちの前にまだいる。毎朝、学校行く前に見に行ってんだよ、俺。カーテン閉まったまんまの窓、見上げてさ。バカみてえに」


受話口の向こうで、ニルが鼻をすすった。


「コウタは毎日、確認です、連絡ありましたか、って聞いてくるし。ジャスティンは、ミラの匂いが町からしなくなった、とか言うし。ミナコは、なんも言わねえで、ヘッドホンの上から耳押さえてるし」


みんなが、自分のいない場所で、自分の話をしていた。うなずいたのは自分だ。いちばん遅れて顎を下げて、下げたまま、一人で電車に乗った。


「……ごめん」


打って消すより先に、声になっていた。


「謝んの、なし」


「次。次は、行く前に言え。止めねえから。言え」


「……うん」


風鈴が鳴った。電話の向こうで、包丁がまな板を打つ音がしている。


「火、戻ってきた。戻ってきたけど、言うこと聞かねえ。昨日、兄貴の干物、一枚焼いた。うまかったけど、怒られた」


ミラは息だけで笑った。


「あと、ミナコの配信、見とけ。すげえことになってるから。それと、交流戦。エントリーした。今年はハズキんとこまで行く」


「……勝てるの」


「勝つって言ったろ。だからお前、客席で見てろ。いちばん前な」


「……アイス、持ってく」


「ツケの分もな」


ニルの声が、急に小さくなった。


「そっち、寒いか」


「……うん。山だから」


「じゃあ、カーディガンの袖、折んなよ。手、冷えんだろ、お前」


通話が切れたあとも、スマホはニルの声の熱をしばらく持っていた。話しているあいだ、一度も入力欄を使わなかった。




火曜の夜、居間の隅の古いパソコンを借りた。


画面の縁が黄ばんでいる。お気に入りには『ゆうゆう館』『健康応援ショップ』『ねむりの森 公式』が並んで、ほかには何もない。


逃げた、と書かれた夜の続きを、ここへ来てから一度も見ていない。


今夜は、見る。


最後のアーカイブの下のコメントを、古い順に読んだ。


『逃げた』『爆弾魔の配信アーカイブ保存しとこ』


途中から、流れが変わっていた。


『港の動画の音、解析したやつ出てる』


『男の声、しゃがんでる子と別人で確定だって』


『ミナコって子の配信から来ました。あの子の耳、本物だった』


『まとめK、記事全部消して垢消ししてる』


『手しか映さない人に、謝りたい。ごめん』


何人かは、あの夜『爆弾魔』と書いた名前だった。同じ名前が同じ欄に、今度は『ごめん』と書いている。


胸の奥で、何かが小さく跳ねた。勝ち、と言いかけて、口を閉じた。


勝ったのは、ミナコの耳だ。知り合い乙と書かれながら歌った耳。ミラはまだ、ありがとうの一行もミナコに送っていない。借りの値札が、桁を一つ増やして胸に貼りついた。ミナコのいちばん新しいアーカイブの題は『耳がいいだけの配信』。


半額ナイトのページに戻ると、いちばん新しいコメントは昨日の夜のものだった。


『無事でよかった』


名前の欄に、タカ、とあった。


配信のない夜にも、この人はまだ見ていた。喉の奥が、ゆるんだ。


入力欄に、指を置いた。最初の夜は、こ、の一文字までは打てた。今夜の指は、その一文字にも届かずにキーの上で浮いている。入力欄は空のまま、ブラウザを閉じた。


「……見たいものは、あったか」


居間の反対の端で、祖父がこちらを見ないまま言った。


「あった」


祖父は、それ以上聞かなかった。


黄ばんだ画面の向こうの窓に、庭の土が居間の灯りで四角く照らされていた。


白い線の外側を、手のひらほどのクモが一匹横切っていく。暗がりから伸びてきた黒に上半分を沈めて、クモは脚を抱えたまま動かなくなった。その下の影だけが、灯りの中でも分かるほど薄い。


ゆうべのカエルも、そうだった。橋の欄干の、ガも。


怖がらせてから、食べている。ガの夕方に、じゃれているだけだと決めたのは、ミラの方だった。


窓の外の暗がりのどこかで、クロが目を細めている気がした。今の、こわい、も、きっと届いている。




背中のうしろで、畳がきしんだ。


いつのまにか、ロムスが立っていた。ネクタイを締めたまま、暗くなった画面を見ている。


「観測か」


誰に聞かせるでもない声だった。黒い画面に、ミラとロムスの顔が並んで映っている。ロムスは、画面の中の自分から目を逸らした。


「見る方ですか。見られる方ですか」


答えられなかった。どちらとも言えた。


ロムスの目が、机の端の母のノートに落ちた。閉じた目の印の上で、止まる。


「……ロムスさんは、何を観測してたんですか」


ロムスはネクタイの結び目に指をかけて、ゆるめた。人に見える時間は終わったらしい。


「いつか、話します」


ノートの印から目を離さないまま、言った。


「その目を、どこで見たのか。あなたが、それを聞きたくなったら」



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