第23章 管理局
男は、白い線の手前で止まった。
またげるのに、またがない止まり方。泥だらけの靴の爪先が、白い砂から指一本ぶん離れている。
水曜の昼過ぎだった。杉林の道をのぼってくる姿は、縁側から見えていた。灰色の制服の上着が体に対して大きく、猫背で、両手をポケットに入れたまま、ときどき足もとの霜柱を避けていた。
「管理局さんだ」
祖父がそう言って湯呑みを置いたとき、ミラはノートを閉じた。会ったら、白い車の人たちがいつまでいるのかを聞く。それだけ決めて、祖父のうしろについて玄関へ出た。足もとで、クロの気配が影の中へ沈んでいく。
薄い茶色の癖毛が、目にかかっている。頬にそばかすが散っていた。若い。目の下に、眠っていない人の色がある。片方の靴紐が、ほどけかけていた。
ポケットから出した両手に、白い綿の手袋をはめていた。靴とは別の人のもののように、手袋だけが白い。
男はミラの顔を見て、すぐに目を逸らした。それから祖父に頭を下げた。
「突然、すみません。局の、監視部門から来ました。御影ミラさんの件で」
「入れとは言わん」
「はい。ここで、結構です」
祖父は線の内側から動かない。ミラは祖父の半歩うしろに立った。半纏の背中に、半分隠れていられるのがありがたかった。
「先に、申し上げます。保護目的、です」
男は最後の一語を、飲みこむように言った。
「港の件以来、御影さんの周りで、因子の異常が続いています。局の施設に移っていただければ、周りの方も、御影さん自身も、安全……だと」
「誰が、そう決めた」
「自分には、決められません」
男は手袋の指を、一本ずつ伸ばした。
「危険対象、という区分があります。そう判断されると、本人の同意は、要らなくなります。今はまだ、その手前です。手前のうちに、来ていただきたい、です」
決まりを一つ口にするたびに、男は自分の手袋に目を落とす。申しわけなさそうに制度を話す人だった。
「施設の部屋には、窓があります。……見張られている窓、ですが」
言ってから、自分の言葉に困ったように手袋の指先を見ている。
保護、という言葉はぬるかった。この人は、自分で温めたのではない言葉を、渡しに来ている。
「港の件では、民間の負傷者が一名。それと、職員の死亡が、一名」
ミラは男の顔を見た。
「港で、誰か、死んだんですか」
男の手袋の指が、途中で止まった。
「……業務中の事故、と記録されています」
「爆発で?」
男は答えなかった。答えないまま、ミラの足もとに目を落とした。ほんの少しのあいだだった。
港の夜、怪我をしたのはニルだけだった。死んだ人のことは、ニュースにもコウタの話にも出てこなかった。
この人の言う一名が誰なのか、ミラには分かった。クリーニングの札。焼きそばの袋。出張の次は、港の事故。値札の上に、もう一枚。
膝の裏が、ふっと抜けかけた。違うことにしておけば、今ここで膝をつかずに済む。その逃げ道は、ニルの目を見て言った夜に、自分で塞いでいた。
分かったことを、口には出さなかった。言えば、この人の報告に、路地が一行増える。増えた一行は、出張とも事故とも書き換えられて、またどこかの台所へ届く。
黙っているあいだに、男が口を開いた。
「白い車は、自分の乗ってきた一台だけでは、ありません。自分には、帰る日を決められません」
聞く前に、答えが来た。用意していた質問が、口の中で行き場をなくした。
「茶を、出す」
祖父が、いきなり言った。
台所から戻ってきた祖父は、湯呑みを一つ、白い線の上に置いた。線の内側でも外側でもない、ちょうど上。中の茶は底が見えないほど濃くて、緑というより黒に近い。
男はしばらく迷ってから、しゃがんで湯呑みを取った。手袋のまま、両手で包む。
一口すすった。
眉が寄って、喉仏が上下して、それから目にみるみる涙が溜まった。
「……おいしい、です」
最後の一語が、また飲みこまれた。ミラは祖父の顔を見た。祖父は横を向いている。肩が、小刻みに揺れていた。
男は、全部飲んだ。
湯呑みを線の上に戻して、男は立ち上がった。手袋の指先が、茶の色に染まっていた。
「お返事は、今日でなくて、構いません」
「返事は、いらん」
「はい。……そう、報告します」
男は頭を下げて、杉林の方へ戻りかけ、足を止めた。
線の外の踏み石の上に、いつのまにかクロが出てきて丸くなっていた。二枚の小皿の横だった。
男はクロを見た。クロは毛を逆立てない。ロムスを見るときとは違って、片目を開けて、それだけ。
「……元気そうで、よかったです」
誰に言ったのか、分からない声だった。
「あの」
男の背中が止まった。
「名前、聞いてもいいですか」
自分の声に、自分で驚いた。
男は振り向かなかった。手袋の手を、ポケットに戻した。
「名乗るほどの者では、ない、です」
今度こそ、男は杉林の道を下っていった。ほどけかけた靴紐を、最後まで結ばなかった。
「あの人、クロを知ってるの」
祖父は湯呑みを拾い上げて、底に残った濃い色を見た。
「局の人間は、なんでも知ってる顔をする」
それから、付け足した。
「靴紐も結べんくせにな。……全部、飲みおった」
半分、感心している声だった。
ミラは、男の消えた道の先を見た。木の間から、白い車の屋根がいくつも見える。
夕方になっても、どれも動かなかった。
その夜、上がり框で戸を指二本ぶん開けていると、杉林の方で車のドアが閉まる音がした。
一つ。少しあいて、もう一つ。
白い車の屋根が、まぶたの裏に並んだ。息が浅くなる。
踏み石の上のクロは、前足をそろえたまま動かない。影だけが、線の外の庭に広がっていった。端から端まで。畳にすれば、二枚を越えている。
黒の中に、赤い目が開いた。二つ、三つ。数えるより先に、増えていく。喉を鳴らす音が、土の下から聞こえた。
ミラは膝の上で、指を折った。
二百九十八の半分、百四十九。三百八十の半分、百九十。四百二十の半分、二百十。
声に出さずに、一つずつ。間違えないように。
目が、一つずつ閉じていった。影の縁が、土の上を這って戻ってくる。畳二枚。一枚と半分。
そこで止まった。それ以上は、戻らなかった。
けれど、止まった。数えて、止めた。
ミラは長く息を吐いた。指の先は、まだ白くなっていない。
これなら、やっていける。
柱時計が一つ鳴った。クロが片目だけ開けて、ミラを見た。




