第24章 見張り
双眼鏡の中で、目が合った。
白い車の運転席に、黒いコートの人が座っている。眠ってはいない。こちらを向いて、同じものをのぞいていた。
ミラはすぐに下ろした。心臓の一つ目が先に跳ねて、二つ目が遅れて追いついてくる。
木曜の朝になっても、白い車は山の下から帰らなかった。双眼鏡は、祖父が物置から出してきた未開封の『野鳥観察セット 高倍率』の中身だった。
「……鳥は、見ないんだがな」
裂いた箱の内側に、値札がまだ貼ってある。四千九百八十円に送料と代引きの手数料。
足して、引いて、一円ずれた。
もう一度足した。また、ずれる。値段の計算で間違えたことは、今まで一度もない。
数字を並べるたびに、胸の二つ目の音が強く打った。打つたびに、自分のではない数え方が混じりこむ。ひい、ふう、みい。値札の数字が、その声に一つずつ押しのけられていく。
縁側のガラス越しに、線の外のクロの影が見えた。踏み石を三つ越えた先が、数え直しても戻らなかった。
祖父は説明書を、ていねいに畳んで箱へ戻していた。
「……開けて、よかった」
昼前、門の脇の古い郵便受けに、封筒が一通入っていた。
切手も消印もない。宛名は細い字の手書きで、ミラの名前だけ。
同じ字を、知っている。
中は、印字の一行。
『夜は窓に近づかないでください』
鞄の底の『観測を続けてください』と卓袱台に並べると、二つの宛名は同じ人の字だった。
一通目の方が、わずかに重く見えた。紙は同じ。厚さも、同じはずだ。
鋏を取ってきて、一通目の三辺を全部切った。
開いて、一枚の紙にする。
内側の、糊しろの近くに、黒い点があった。
小指の爪の先くらいの薄くて丸いもの。爪で引っかいてもびくともしない。
アパートの部屋で、机の引き出しの中で、鞄の底で。ずっと、これは一緒にいた。
口の中が乾いた。シールを剥がして、ノートに貼って、配信をして、布団に入って壁の方を向いていただけの夜が、一晩残らずこの小さな点のすぐそばにあった。
それを、誰かが聞いていた。
夜、ロムスが帰ってきた。
開いた封筒を卓袱台の真ん中に置いて、待っていた。襖を開けたロムスはそれを見て、ネクタイに伸ばしかけた手を途中で止めた。
「……私のです」
「観測班にいたころの、癖です。見ていられない夜は、聞いていました。あなたが、ちゃんと息をしているかどうか」
膝の上で手を握った。ひどい、も、どうして、も、喉の手前で重なって詰まる。
「あなたは、ほとんど声を出さない人でした。聞こえたのは、シールを剥がす音と、ため息だけです」
握った手が、少しゆるんだ。責めたらこの人は黙ってこの家を出ていく気がした。人が一人減ることの方が、聞かれていたことより先に怖い。
「それを聞いて、どうしてたんですか」
「十時に、あなたは配信を始めました。始める前に、必ず鍵を二度確かめていた。かちり、かちり、と。……それが聞こえると、私は眠れました」
鍵を確かめる癖を、誰かに知られているとは思わなかった。知られていて、それで誰かが眠れていたとも。
「……それで、どうして今、窓に近づくなって」
ロムスは、山の下の白い車の灯りの方を見た。
「あれは、たまたま来たんじゃない」
丁寧な声が、そこで剥がれた。
「気づいたんだ。これに」
「局の、古い型です。辞めたときに持ち出したもの。局の耳には、まだ届く。ここへ局を呼んだのは、私です」
呼んだのは、封筒だけではない。鞄の中のスマホも、たぶん同じ耳だ。それでも、ここまで持ってきた。
電源に指をかけて、ニルの『来たら、すぐ言え』を思い出した。切らなかった。
居間の隅に、祖父の夜中の通販番組用のラジオがあった。
封筒を、ラジオの前に立てた。
つまみを回すと、明るい女の人の声が流れだした。
『今夜ご紹介するのは、寝たままで腹筋が鍛えられる——』
ロムスが顔を上げた。ミラは音量をもう一段上げた。
「朝まで、これを聞いてもらいます」
襖の向こうから、寝ていたはずの祖父の声がした。
「……それ、もう持っとる」
ロムスが、手のひらで口もとを覆った。肩が揺れている。
灯りを消して、窓から一番遠い壁ぎわに座った。山の下で、白い車のライトが点いて、消える。見ている、という合図みたいに。
ラジオは夜中を過ぎても、明るい声で売り続けていた。
眠れずに水を飲みに行くと、窓のない台所の小さな灯りの下で、ロムスが湯を沸かしていた。
「眠れませんか」
「……あの目の印のこと、聞きたくなりました」
聞きたくなったら、と火曜の夜にロムスは言った。聞きたくなるまで、二日しかかからなかった。
ロムスが急須に湯を注ぐと、茶葉が一斉に浮き上がって口の手前でぴたりと止まった。
「すみません。癖で」
「見ていなくても、止めてしまうことがあるんです。眠い夜は、特に」
ミラは食卓に、母のノートを表紙を上にして置いた。
「無想苑、という医療法人がありました」
ロムスは印を見ずに言った。
「門にも、ノートにも、白衣の胸にも、同じ目がありました。見ないことの印です」
むそうえん。口の中で繰り返すと、初めて聞く名前なのに、舌がその音の形を知っている気がした。
「私は局の観測班にいました。影の向こう側を見る仕事です。見すぎて、半分が向こうに残りました。そのあと局は私を、無想苑に入れました。中のことを、外へ伝える役です」
「スパイ、ですか」
「内通者、と局は呼びます。言い方を変えると、罪が軽く聞こえるので」
「窓が一つもない建物で、真ん中に屋根のない中庭がある。見上げると、空だけがある。……私は、あそこの人たちの言葉を好きになりました。人は、見られて壊れる。誰にも見られない場所へ行けば、もう壊れずに済む。影の向こうに、そういう場所がある。楽園です。いつか、そこへ還る」
「子どもも、いました。局には、何も起きていない、とだけ書きました。書くたびに、中で起きていることは重くなっていきました」
手だけを映して、声は出さない。見られたいのに、全部は見られたくない。窓のない建物の話が、他人の話に聞こえなかった。
「局は、どうして、そんなところに」
「隠すからです。あそこは、人を隠しました」
今は、隠す側だ。
「何が、起きてたんですか」
ロムスは答えなかった。湯呑みの茶が、表面だけ止まって、また揺れた。
「お母さんも、そこに、いたんですか」
ロムスの目が、祖父の寝ている部屋の方へ動いた。
「御影さんが話さないことを、私は話せません」
残りは、閉じた襖の向こうにある。
「扉が開いているのを見たのは、橋の下の夕方が初めてでした。あなたの影から、あれが出て、前を歩いていた。やっと見つけた、と思いました」
見つけたのは、ミラではなかった。ミラの足もとにある、扉だった。
三年見てきたと言われて、どこかで少し嬉しかった自分がいた。半額のシールの下から、定価の数字が透けて見えたときの感じに似ている。
「今も、そう見えますか」
「見えます。だから、失敗した方なんです、私は。向こうへ行き損ねて、こちらにも戻り切れない」
廊下の向こうで、ラジオが『お体お大事に』と言った。ロムスがわずかに笑う。
「御影さんが毎晩この声を聞いている理由が、分かります」
ロムスが灯りの紐に手を伸ばした。湯呑みの茶は、もう揺れていない。ロムスが見ていないのに、止まって見えた。冷めただけだった。
紐が引かれて、台所が暗くなった。二人の影が、床の上から消える。
「おやすみなさい、ミラさん」




