第25話 黒い車
「鈴杣の音声です、ルーフ執行官」
監視部門の主任が、紙を一枚読み上げた。
「昨夜は夜通し、ラジオの通販番組でした。腹筋の器具、足裏の器具、それから、ふとんの乾燥機を」
ルーフは腕時計を見た。金曜、七時五十二分。三分進めてあるので、世界はまだ四十九分にいる。
胸ポケットの端末に目を落とす。画面に、主任の名前といくつかの数字が並んだ。肝臓が、あと十一年。心臓は、それより長い。寿命の遠い者に、目を割く理由はない。
顔を上げると、左の頬の火傷の痕が、窓の光で白く光った。街でいちばん高い建物の、上の方の部屋だった。
「途中で、切り替えたのか」
「いいえ。最初から最後まで」
「聞かれていると知っていて、聞かせたのだ」
ルーフは笑わなかった。
「読める相手だと思っていた。読み違えた。対象の査定を上げる。記録には、通販の品目まで全部書け」
読めるものは、もう拾ってある。ひと月ぶんの音声から、二行。名前で呼べば、猫の真似をする。見られているあいだは、形を変えにくい。決まりが二つあれば、手順は組める。
主任は紙の束のいちばん下に、手書きの一枚を重ねていた。観測班の古い所見だった。数字が一つもない。見られているあいだ、それは形を保つ。そう一行あるだけだった。
ルーフは端末をかざした。紙の上には、何も映らない。人を一人、向こうへ半分置いてきた部署の紙だった。読まずに、脇へ置いた。
戸口の脇で、紺の上着の小柄な女が帳面から顔を上げた。
「その一枚は、読まれないんですか」
「数字のない紙は、読まない」
女はペン先を帳面に下ろしかけて、何も書かずに閉じた。
主任が出ていくと、ルーフは端末を胸に戻して廊下へ出た。
廊下の突き当たりの部屋で、白髪の男が小さな画面を見ていた。薄い革の手袋をはめた指が、再生の印の上で止まっている。画面の中では、子どもの手が半額のシールを剥がしかけていた。同接の数字が、一つ減ったところで止めてある。
「一人、減りましたね」
白髪の男は、画面から目を離さないまま言った。
何の話か、ルーフには分からなかった。分からないまま、要件を言った。
「局長。対象を危険対象に切り替えます。今夜、実働班を出します」
「任せます」
局長は画面の中の手を見たまま、付け足した。
「線引きの先生の砂は、踏めば割れます。三年前と、変わっていなければ」
ルーフは端末を見た。線引きの先生、という呼び名は、どの記録にもない。三年前、という数字も。
局長が何を見ているのか、ルーフには読めない。端末を向けても、この人の数字はいつも霞んでいる。読めないものは、この人と、猫だけだ。
局長は手袋の手首を片方ずつ引き上げて、また再生の印を押した。画面の中の手が、シールの残り半分を剥がしはじめた。
廊下の窓際に、背の高い男が立っていた。左の手首に木の数珠。足もとに黒い獣が伏せていて、たてがみの先が煙のようにほどけては、また結ばれている。
「NO2。お前は待機だ。二十時五十七分まで、動くな」
「二十時五十七分まで、動かない。承知しました」
言われた言葉を、そのまま返す。穏やかな顔だった。端末に映るこの男の数字は、いつ見ても揺れない。
「港の件の男は、洗い場に落とした。数え違いは、一度で足りる」
黒い獣が片目を開けた。ルーフはその目を見なかった。
「猫の仲間は、嫌いだ。どこへ跳ぶか、読めない」
その夜、ミラは窓から一番遠い壁ぎわに座っていた。
月のない夜だった。祖父は玄関の上がり框で、杖を膝に立てている。夕方のうちに物置から通販の箱をいくつも運んできて、上がり框の手前に胸の高さまで積んでいた。ロムスは珍しく早く帰ってきて、ネクタイをしたまま居間にいる。誰も、ラジオをつけない。
窓には近づかない。膝を抱えて、その上に母のノートを載せていた。重さを確かめていたかった。
障子の桟のすきまから、山の下の白い灯りが一つだけ見えていた。点いて、消えて、しばらくして別の場所で点く。柱時計の長い針で、ミラはその間を測った。四十分ごとに一度消えて、三分してから点き直る。見張りが入れ替わる、三分。
夕方、祖父は裏口の戸を指でたたいて言った。いざとなったら、ここから沢へ下りろ。分校の屋根が見えたら、道に出る。
ミラは聞くだけ聞いて、うなずかなかった。うなずけば、その道を使う夜が本当に来る気がした。
封筒を持って俺が下りる、とゆうべ祖父は言った。耳を持った年寄り一人なら、山の下で拾われて終わりです、とロムスが止めた。線の内の方が、まだ守れる、と。
「今夜は、私が見ます」
居間の暗がりから、ロムスが言った。何を、とは言わない。
縁側の風鈴の下で、スマホが鳴った。
着信の音だった。ニルかもしれない。出たかった。けれど風鈴の下は、窓のすぐそばだ。抱えた膝に額を押しつけて、ミラは呼び出し音を、指を一本ずつ折って数えた。七回。八回目は来なかった。
玄関の外の踏み石で、クロが小皿の横に座っていた。昼間から、一度も丸くならない。耳だけが、山の向こうを向いている。
柱時計は、八時五十四分を指していた。
最初に気づいたのは祖父だった。
「……車だ」
山の向こう側の、使われなくなった林道の方から、エンジンの音が上ってくる。一台ではない。杉の幹のあいだを灯りがいくつも横切って、そのたびに障子の桟の影が、居間の壁の上を右から左へ、音もなく走っていった。
白ではない。山の下の車とは違う、黒い車。
灯りは林道の終わりで、一つずつ消えた。
それから、足音が一つ、玄関の方へ近づいてきた。走っている足音だった。
白い線の手前に、男が立っていた。
水曜の昼に、苦い茶を全部飲んで帰った人だった。灰色の上着の前が開いていて、肩で息をしている。白い手袋の両手を、今夜はポケットに入れていない。指先が、茶の色に染まったままだった。
「今ならまだ、間に合います」
最後の一語は、飲みこまれなかった。
「保護ではありません。回収、です。実働班が、来ます。自分は、止められません」
男は手袋の手を、胸の前で握った。
「自分は、監視の係です。見るだけの、仕事です。見るだけでは、もう」
その先を、男は飲みこんだ。
祖父が杖を握り直した。ロムスが居間の暗がりから出てきて、ミラの前に立つ。ネクタイをほどいて、ポケットに押しこんだ。
男は線の向こうから、ミラだけを見ていた。水曜にはすぐ逸れた目が、今夜は逸れない。
「今夜は、ここにいないで、ください」
背中の真ん中が冷たくなった。
同じ形の言葉を、前に画面で読んでいた。いつ、どこで。指先がその記憶の端に触れかけたところで、男のうしろの杉林に、灯りが一つ点いた。
もう一つ。
もう一つ。
膝が、抱えた腕の中で震えた。逃げるなら今だ。裏口から、沢へ。けれど裏口へ走れば、祖父とロムスは玄関に残る。残していく背中を、もう一つ増やしたくなかった。
灯りは、右からも左からも、家を囲む形に、順番に点いていった。




