第26話 包囲
「クロを見ていてください。何があっても、目を離さないで」
ロムスが振り向いて、ミラの肩をつかんだ。骨ばった指が、カーディガンの上から鎖骨に当たる。離れたあとも、そこに指の形が残っていた。
杉林の灯りは、家を囲み終えていた。白い光が四方から玄関と縁側を照らして、ミラたちの影が畳の上を這い、襖を越えて家のいちばん奥まで長く伸びていく。障子に、杉の幹の影が縞になって映っていた。光の向こうで、人の形がいくつも動いている。
ミラの足もとからも、祖父からも、影は灯りの数だけ、四方へ散っていた。
線の外のクロの影だけが、一本だった。どの灯りにも従わずに、白い線の手前まで、まっすぐミラの方へ伸びている。
ミラはうなずいた。祖父とロムスのそばから離れない。クロから目を離さない。それなら、自分にもできる。
白い線の外の踏み石で、クロが立ち上がっていた。光の方へ体を向けて、毛が根もとから順に立っていく。
膝が震えていた。止めようとしても止まらないので、止めるのをやめた。震えたままでも、目は動かせる。
光の中から、男が一人、前に出てきた。
黒い上着の襟に、番号が縫いつけてある。肩幅が、玄関の戸と同じくらい。うしろに、灯りを抱えた者と黒いコートの人たちが並んでいた。どの靴も、泥ひとつついていない黒い革靴だった。杉林の斜面をのぼってきたはずなのに。
「監視部門は、下がれ」
番号の男が、振り向かずに言った。白い手袋の若い男が、何か言いかけた。
「待ってください。まだ、本人の」
「下がれ」
若い男は手袋の手を握りしめたまま、杉の木の陰まで下がった。下がりながら、ミラの方を見た。
「御影ミラ。回収する。危険対象は、本人の同意を要さない。抵抗しなければ、誰も怪我をしない」
決まりを読み上げる声。その中に、この人自身の考えは一つも入っていない。
祖父が杖をついて、玄関の内側に立った。
「線の内には、入れん。線を越えるなら、越えた先の責任を持て」
番号の男は、足もとの白い線を見下ろした。それから、玄関の中を見た。
上がり框の手前に、段ボールの箱が胸の高さまで積んである。いちばん上の箱に、赤い字で『らくらく背のびーる』。
番号の男は、それを読んだ。表情は何も変わらない。読まれた箱の方が、気の毒になるくらいだった。
「どけろ」
黒いコートが二人、前へ出た。
線は、人を止めなかった。
黒い靴が白い砂を踏んで越える。砂が、靴の形にへこんだ。祖父が杖で一人の胸を突いた。もう一人が、祖父の腕をつかんでねじり上げた。
祖父の口から、短い息が漏れた。杖が三和土に落ちて、乾いた音を立てる。七十の腕だった。折れる音がしてもおかしくない角度。
線の外で、クロの影が膨らんだ。踏み石の上を、畳にして二枚ぶん埋めている。
ミラの手が、上がり框の脇のつまようじ立てに伸びていた。夕方、台所から持ってきておいたものだ。
クロを見ていなければ。でも投げるときは、投げる先を見なければならない。目は、一つの方しか見られない。
祖父の腕と、クロの目。指はつまようじを一本抜いたところで止まった。
ロムスが、ミラの前から一歩出た。クロとミラのあいだに立って、クロの方を向いた。
「見ています。投げなさい」
ミラは、祖父の腕をねじっている男の足もとの影だけを見た。光が強くて、影は濃く、くっきりしている。
投げた。
つまようじは影に落ちて、半分まで沈み、止まった。
男が止まった。祖父の腕をつかんだまま、腰を落とした形で動かない。目だけが、驚いたように見開かれている。
祖父が、その手を自分でほどいた。男は、ほどかれた手の形のままそこに立っていた。
消えなかった。
杖で突かれた方の黒いコートが、動かない仲間を見て一歩下がる。黒い靴の踵が、白い線の上で止まった。
ミラの指先から、また血の色が引いていく。人差し指の、今度は付け根まで白い。
止まるだけで、済んだ。祖父はねじられた方の肘を、もう片方の手で包んでいる。
路地の夜にも、こうできた。誰かがクロを見ていて、自分が影だけを見ていれば。あの人は夜明けまで自販機の横に立ったまま、明るくなったら持ち手を二回ねじった袋を抱え直して、焼きそばを三つ、待っている誰かのところへ持って帰れた。
熱いものが、胸の奥から目の縁まで押し上げてきた。奥歯を噛んで、そこで止める。濡れた目では、影の輪郭がぼやける。
「影を縫う」
番号の男が、低く言った。
「音声のとおりだ。光を用意しろ」
「夜が明けるまで、そいつは動かんぞ」
祖父が、縫われた男の肩に手を置きながら言った。
「置いていけ」
番号の男は、縫われた部下の方を見もしなかった。
うしろで、灯りを抱えた者たちが動いた。
白い線の外で、クロが鳴いていた。目が、ロムスの肩越しにミラを見ている。お腹が空いた、という目だった。ロムスに見られて、背中を押さえつけられたように低くなりながら、喉の奥でずっと鳴っている。
ロムスの白目の黒い点が、灯りの中でじわじわと広がっていくのが見えた。点だったものが、もう染みになっている。
見すぎている。止めて、と言いかけて、ミラは唇を噛んだ。クロを見ている目は、ここには一組しかない。
「ロムスさん」
名前だけが出た。
「大丈夫です」
ロムスは、クロから目を離さないまま言った。
「ミラさん。何があっても、選ばないでください。あれを、自分から放すのを。選ぶな」
最後の一言だけ、丁寧な声が剥がれていた。
「線を消せ。猫も、一緒に持って帰る」
番号の男が、白い線の上に片足を載せた。越えるのではない。そこに立って、靴の踵に体重をかけた。
砂が、白から灰色に戻っていく。
踵の下から、黒い水がゆっくりと滲みだした。線の外にいるクロの影の方から、線の切れ目を探すように時間をかけて這ってくる。
番号の男は、それを見下ろした。
もう一度、踵をひねった。
白い砂が、ぱきり、と鳴った。
割れ目から、黒が流れこんできた。三和土を越え、上がり框を越えて、畳の目を一枚、二枚。数えるつもりはなかったのに、目が勝手に数えていた。
二枚と半分で、黒はミラの爪先に触れた。




