第27話 赤い目
割れた白い線の切れ目から、黒が三和土を這いのぼってくる。爪先に触れたところが、冷たくもないのに痺れていた。
番号の男が片手を上げた。
「光」
灯りを抱えた者が何かを投げた。銀色の、細い筒。
筒が、三和土の上で跳ねた。
白くなった。
目を開けているのに、白しかなかった。瞼の裏まで白が染みて、まばたきをしても消えない。白い天井。四角い灯り。夢の中の部屋の白さが、目の前いっぱいに広がっている。手首にベルトが巻かれている気がして、ミラは手首を振った。何も巻かれていない。
「ロムスさん」
返事の代わりに、うめき声がした。
クロを、誰も見ていない。
白の向こうで、喉を鳴らす音がした。床の下から。膝の上の猫が、満足したときに鳴らす音だった。
白が、端からほどけていった。
最初に戻ってきたのは、ミラの目だった。ロムスはまだ、両手で顔を覆っている。祖父は杖を探して、三和土に膝をついていた。
見るか、目を逸らすか。
見れば、見たものがずっと目の中に残る。逸らせば、誰も見ていないものが、この家で好きに動く。
路地の夜、ミラは見ないことにして投げた。
ミラは、見た。
踏み石の上に、クロがいた。
前足をそろえて座っている。片手に乗りそうな、いつもの大きさ。耳の先まで、猫の形をしていた。
その足もとから、黒が広がっている。
三和土を埋め、上がり框を越え、畳の上を這っていた。床に落ちているのではない。厚みがある。縁が、波の頭のように少しずつ持ちあがっている。
その黒の中で、赤い目が開いた。一つ、また一つ。数える前に増えていく。どの目も、閉じては開く速さが踏み石の上の猫と同じだった。
見ているのに、止まらない。止まるのは体だけ。カエルの夜に、分かっていたはずだった。
横から、祖父の手がミラの手首をつかんだ。乾いた、骨ばった手。離さない、という握り方だった。
ロムスが、顔を覆ったまま立ち上がった。見えない目のまま、ミラとクロのあいだに背中を置く。家の中で、その背中だけが動かなかった。
二百九十八の半分、百四十九。
口の中で数えた。
三百八十の半分、百九十。四百二十の半分、二百十一。
一円、ずれた。
黒が、畳半枚ぶん奥へ伸びた。
もう一度。四百二十の半分。二百、ひい、ふう。自分のではない声が、数字のあいだに割りこんでくる。また、ずれた。黒がまた半枚伸びた。
「光を増やせ」
番号の男の声がした。灯りが次々に向けられて、家の中が昼より白くなる。人の影はどれも、灯りの数だけ散って薄くなった。
黒だけが、薄くならなかった。光をそのまま飲んで、縮みもしない。
「増やせと言っている」
灯りが増えた。黒は、光の届いたところから膨らんだ。
黒の縁から、細いものが出た。
関節がある。一本、二本。三本目からは、数えなかった。脚は畳の上を探るように這って、腰まで黒に浸かった黒いコートの人に届いた。
上半分が、黒に沈んだ。黒の外に残った手が、懐中電灯を握ったまま震えていた。灯りが畳を転がって、天井を照らして止まった。
外に残った脚が、床板を蹴った。踵が板を打つたびに、黒の奥でくぐもった声がした。カエルの夜と、同じ形だった。
蹴る音が、一つずつ止まっていく。止まるたびに、喉を鳴らす音が一つ増えた。
番号の男は、柱に両腕を回していた。胸まで黒に浸かって、爪を立てている。片足を、引き抜いた。もう片足も。
足は抜けた。靴だけが、黒の中に残った。
脚が、靴下の足首をつかんだ。男の体が柱から剥がれて、黒の中へ引かれていく。柱の木目に、爪の跡が四本残った。
杉の陰で、白い手袋の若い男が、両手で口を押さえていた。目は、閉じていなかった。
「クロ」
叫んだつもりだった。かすれた声だった。
踏み石の上で、猫が顔を上げた。
「にゃ」
いつもより、少し高い声だった。名前を呼ばれた猫が、返事をしただけの声。
その足もとで、黒は食べ続けていた。
猫の名前で呼べば、あれは猫の真似をする。真似をしているのは、踏み石の上の小さな体だけだった。
黒が、奥の襖に届いた。
三和土から襖まで。畳にすれば、三枚。数えたくないのに、目が勝手に畳の縁を拾っていく。
襖の手前で、黒が床から起きあがった。
壁のように。波のように。天井の手前で止まって、そこでゆっくり揺れている。その表面に、赤い目が一斉に開いた。
起きあがった黒の裾は、まだ廊下の奥へ伸びていた。仏間の障子が、内側から黒く染まっていく。祖父の家の、いちばん奥まで。
黒の中から、一本の細いものがミラの方へ伸びてきた。
脚ではなかった。先が平たくて、何かを載せている。
ミラの足もとに、それを置いた。
黒い革の靴だった。片方だけ。紐は、結ばれたままだった。
猫は、獲ったものを見せに来る。コンビニの駐車場の茶トラが、雀をくわえて車止めの前に置いていったことがある。褒めてほしそうな顔をしていた。
踏み石の上で、クロが目を細めていた。同じ顔だった。
崩れた線の跡に、黒い革の靴が並んでいった。一足ずつ、爪先をそろえて、玄関の方を向いて。どれも、紐は結ばれたままだった。
その横に、男が一人だけ立っていた。つまようじで縫いとめた男。腰を落とした形のまま、目を見開いている。黒は、その足もとだけを避けていた。
喉を鳴らす音が、家じゅうで鳴っていた。
その音を、知っていた。
白い部屋。四角い灯り。誰かの白い背中が、灯りの下から、自分の方から、黒へ歩いていく。袖口に、青いインクの染み。黒の中で、同じ音が鳴っていた。
背中は、振り向かない。
息が、吸えなかった。吸っているのに、胸のどこにも入らない。吸って、吸って、吸うばかりで、吐き方が分からない。
手首をつかむ祖父の指に、力がこもった。
「ここにいる」
祖父の声が、遠い。水の向こうから聞こえる。
視界の端から、暗くなっていった。ロムスの背中が、遠ざかる。踏み石の上の猫が、小さくなる。
最後に見えたのは、足もとの靴の、きちんと結ばれた紐の輪だった。




