第28話 残る
目を開けると、天井が傾いていた。
仏間の天井ではない。玄関の、梁の見える天井。背中の下に畳の目があって、頭の下に祖父の膝があった。
「……どれくらい」
「一時間と、少しだ」
祖父の声は、低かった。
「お前が倒れて、止まった」
ミラは首だけを動かした。
三和土の黒は、ほとんど引いていた。踏み石の上で、クロが前足に顎をのせている。輪郭が、くっきりしていた。毛が一本残らず寝ている。満腹の猫の寝方だった。
止まった。倒れて。
怖がっている自分が、いなくなったから。
胸の奥で、何かがゆっくり形になった。カエルも、クモも、ガも、怖がらせてから食べた。怖がられると太る、と祖父は言った。あの黒を、あそこまで太らせたのは。
「……私の、こわいが」
祖父は答えなかった。
起きているあいだ、ミラはずっと、あれに食べさせている。
「閉まりきっていません」
上がり框に座ったまま、ロムスが言った。
左の目は、まだ手のひらで覆っている。右の目だけで、三和土の真ん中を見ていた。その右の白目も、半分が墨を落としたように黒い。
三和土の真ん中に、黒いものが一枚残っていた。水たまりほどの大きさ。ほかの黒は全部、踏み石の上の小さな体へ戻っていったのに、そこだけが引ききらずに薄く揺れている。懐中電灯を向けても、光は黒の手前で途切れた。
「扉は、誰かが見ていないと閉まりません。あなたが倒れたとき、誰も見ていなかった。閉まりかけたところで、止まってしまった」
傾いた家の中で、柱時計だけが動いていた。文字盤のガラスにひびが一本走って、振り子は傾いたぶんだけ片側へ寄り、それでも左右に揺れている。十一時を、少し過ぎていた。
祖父が膝を抜いて立ち上がり、裏口の方へ行って戻ってきた。肩に風呂敷包みを一つ掛けている。中で茶筒が鳴った。
「夜明け前に出る」
「……また、来るの」
祖父は柱時計を見上げた。
「来る。今度は、数えてから来る」
祖父の懐中電灯が、崩れた線の跡を端から順に照らしていった。黒い革の靴が、紐を結んだまま爪先をそろえている。
「食った、とは限らん。猫は、獲ったものを隠す。隠したものが」
祖父はそこで口を閉じて、光を靴から外した。続きを待っても、来なかった。
鞄に詰めるものは、来たときとほとんど変わらなかった。着替えと、充電器と、シールのノート。母のノートは、祖父が風呂敷ごと渡してきた。つまようじの箱は、カーディガンのポケットへ。
黒い点のついた封筒は、ラジオの前に立てたまま置いていく。
縁側に出ると、風鈴が板の上に落ちていた。
吊るしていた釘ごと、軒から外れている。ガラスの縁が欠けて、短冊が半分ちぎれていた。拾い上げると、舌が内側に当たって、ちり、とだけ鳴った。
うしろに、祖父が立っていた。差し出しても、受け取らない。
「置いていけ。鳴らす軒がない」
ミラは縁側の真ん中に風鈴を置いた。欠けた縁が下にならないように、二度向きを直した。
玄関には、まだ男が立っていた。
祖父の半纏を肩に掛けられたまま、腰を落とした形で三和土の端に固まっている。目だけが動いて、ミラを追う。それから踏み石の上のクロへ移って、そこで止まった。
祖父の腕をねじった手が、まだ同じ形のまま宙にある。その指先が、細かく震えていた。路地の人の、困ったように寄せた眉が浮かんだ。
ミラは男の前にしゃがんだ。顔の高さが合った。
「夜明けまで、です」
男の目が、ミラに戻ってきた。
「明るくなったら、動けます。それまで、あの猫は、こっちを見ません」
言いながら、そうなのかどうか分からなかった。配信では一言もしゃべらない口が、知らない大人に保証のない約束をしている。
男の肩の半纏の衿を、首もとまで寄せた。
男の喉が、小さく動いた。
ロムスは、上がり框から動かなかった。
「ロムスさん」
「行ってください」
「一緒に」
「私が見ていなければ、あれは開いたままです。開いたままの扉の前で、局の人間が線を引き直すのは、気の毒でしょう」
冗談のように聞こえた。誰も笑わなかった。
祖父が廊下の途中で足を止めた。振り向かない。
ロムスが、その背中に言った。丁寧な声が、剥がれていた。
「今度は、間に合わなかったな」
祖父の肩が、上下した。
「……前のときも、お前はそう言った」
それだけ言って、祖父は裏口へ歩いていった。
ミラはロムスの横に立った。
腕を引く。袖をつかむ。ここに残るなら私も、と言う。並べた手のどれもが、三和土の黒を開けたままにする手だった。ロムスの袖へ伸ばしかけた指が、その手前で止まったまま動かない。
ポケットに手を入れると、つまようじの箱の角と薄くて柔らかいものに指が触れた。
日曜の夜にもらった、おにぎりのシールだった。
「……明日、貼ります」
ロムスは、右の目を少しだけ細めた。
「勝ちの方にですか」
「まだ、分かりません」
「それでいいと思います」
ロムスは三和土の黒に目を戻した。それきり、こちらを見なかった。
裏口の戸口で、ミラはひびの入った柱時計の長い針を見ていた。山の下の灯りが消える、四十分目まで、あと少し。針が、そこへ届いた。
「今」
祖父は何も聞き返さずに、斜面へ出た。ミラも続いた。
杉林は真っ暗だった。
祖父の懐中電灯の丸い光が、濡れた石と、杉の根と、ミラの白くなった方の手を、順番に照らしては暗がりへ置いていく。石が濡れていて、ミラは二度手をついた。右の手のひらは、石の冷たさを半分しか拾わない。
足もとで、影が伸びたり縮んだりしていた。石に足を取られるたびに、伸びる。転ぶのが怖いだけで、伸びる。
沢沿いの道に出たところで、光が止まった。
泥の上に、小さな足跡が並んでいた。
裸足。指が五本ある。くぼみの底に、黒い水が溜まっていた。足跡は下流へ向かっていて、ミラたちより先にこの道を下りている。
足もとの影から、クロの気配が浮いてきた。鼻先が足跡の方へ伸びて、それから小さく下がった。
祖父は光を足跡から外して、その横を歩きだした。ミラも、踏まないように歩いた。
足跡は浅瀬のところで水の中へ入って、途切れていた。
分校の屋根が見えたころ、空の端が白くなりはじめた。
沢の水で手を洗う。冷たさが指の股に入ってきて、少しずつ手のひらの真ん中まで届くようになった。白さは、指の付け根まで戻っていた。
濡れた手を握った。今度は、自分の手を握っている感じがした。
握った手を、ほどけなかった。
あの人たちにも、焼きそばを待っている誰かがいたのだろうか。紐を結んだまま並んでいた、あの靴の数だけ。怖がらなければ、と数えかけた。怖がらずにいられた夜が一度もないことを、ミラは知っていた。
考えるのを、やめなかった。
山の上の方で、鳥が一羽鳴いた。夜明けまで、と言った自分の声を思い出す。今ごろ、あの人は動けるようになっている。
祖父が、道の方で待っていた。半纏のない作務衣の肩が、朝の冷えで縮んでいる。
背後の沢で、石の転がる音がした。
誰も、渡っていないのに。




