第29話 間に合え
「……似合わない」
「温い」
祖父は紺の雨合羽のフードを、わざわざ頭にかぶった。空は晴れている。駅の売店で買った合羽を、作務衣の上に着ていた。半纏の代わりだった。
汐目の駅に着いたのは、土曜の昼過ぎ。改札を出たとたん、潮の匂いがした。一週間と少し嗅いでいなかっただけなのに、鼻の奥が知らない匂いのように驚いている。
駅前の白い床に、昼の光が真上から落ちていた。人の影は、どれも足もとに小さく溜まっている。
ミラの影だけが、改札の柱の向こうまで伸びていた。
前を歩いていた子どもが振り返って、ミラの足もとを見た。母親の手を、黙って引っぱっていく。
昼の真ん中で、一人だけ夕方の影をしている。そう思ったとたん、影の先が床のタイルを一枚越えた。
怖いと、伸びる。分かっているのに、自分の影が怖い。
二百九十八の半分。数えても、タイルは戻ってこなかった。
祖父は何も言わずに、ミラの足もとから目を離さなかった。
港へ下りる坂は通らなかった。駅の裏から、海沿いの道を回る。坂の上のアパートも、ニルの家の干物の網も、ここからは見えない。見えない方角を、ミラは何度も振り返った。
フェリー乗り場は、港の東の外れにあった。
島へ渡る夕方の便は、十七時に出る。待合室の時刻表の横に、手書きの紙がセロハンテープで留めてあった。『凪の日は、ほとんど揺れません』。ほとんど、の四文字だけ、あとから書き足したように字が小さい。
乗り場の入り口の外、自販機の横に、黒いコートの人が一人立っていた。駐車場の端には、白い車が一台。
祖父は長椅子に座って、フードを下ろした。
「電源を、入れてみろ」
鞄の底からスマホを出した。山を下りてからずっと切っていた。
画面が明るくなると、震えが止まらなくなった。
『確認です。ご無事ですか』
コウタだった。同じ一行が日付だけ変えて、毎朝一つずつ並んでいる。
『町、ミラの匂いがしない。つまんない』
ジャスティンの一行の下に、猫の写真が三枚。どの猫も、カメラから顔を背けていた。
ミナコからは、一つだけ。『配信、たまに見に行ってる。止まってるけど』
それから、ニル。
『金曜の夜、なんで出なかった』
『いや いい』
『生きてるならいい』
画面の上の『いや いい』を、親指の腹でなぞった。消した何かの上に、この四文字が載っている。
いちばん下に、知らない名前からの通知が一つあった。
名前の欄は、数字と記号だけ。本文はなく、動画が一本だけ送られている。
再生した。
夜明けの、祖父の家だった。
玄関の前に、男が一人立っていた。祖父の半纏を肩に掛けている。
男の体が、大きく揺れた。腰が伸びる。自分の手を見て、握って、開いた。
それから、肩の半纏を脱いだ。角と角を合わせて二つに畳み、もう一度畳む。踏み石の上の、空の小皿の横に、それを置いた。傾いた家に向かって、長く頭を下げる。それから、沢の方へ歩いていった。
画面が、ゆっくり右へ動く。
軒の下の影だった。朝日が斜めに差しこんで、傾いた家の影が地面に長く伸びている。
その影の中に、ロムスがいた。
影の地面から生えたように、胸と肩と、束ねた灰色の髪が見えた。橋の下では、影の方に腰から上がなかった。今は、影の中にだけ、腰から上がある。
ロムスが、こちらを見た。右の目には、もう白いところがなかった。
唇が動いた。音は入っていない。口の形で、読めた。
間に合え。
画面の端に、撮っている人の指先が映りこんだ。白い綿の手袋で、指の腹のところだけ、茶色く染みている。
動画は、そこで終わった。
ポケットの上から、おにぎりのシールの薄さを指で探した。明日貼ります、と言ったまま、あの人を三和土の黒の前に置いてきた。
祖父は画面をのぞきこまずに、膝の上の手を見ていた。
「間に合え、か」
それから、時刻表の方へ目を上げた。
「間に合わせる」
祖父は合羽の内ポケットから、自分のスマホを出した。
「耳がついとる。だから、これは俺が持っていく。年寄りの足で、陸をのろのろ歩く。追う目を、二つに割る」
囮、という言葉が浮かんだ。口には出さなかった。出せば、祖父は「そうだ」と言う。
祖父の目が、ミラの足もとに落ちた。
待合室の窓から斜めに入った光の中で、影は長椅子の脚を越えて、時刻表の壁の根もとまで届いていた。
祖父は、しばらくそれを見ていた。
「……割ったら、足りんな」
スマホを握った手が、膝の上に下りた。
「あれを見る目が、今は俺の二つしかない。ロムスは、残った。お前が眠っとるあいだ、誰が見る」
囮の話は、それきりだった。
「乗る。二人でだ」
ニルとのトークを開いた。
次は、行く前に言え。止めねえから。
『行ってくる』
送った。それから、もう一つ。
『どこかは言えない。でも、行く前に言った』
既読は、すぐについた。待合室の時計の秒針が、半周する。そのあいだに、ミラは唾を三回飲みこんだ。
『おう』
『帰ってこい』
『アイス、利子ごと』
吐いた息が、途中で震えて二つに割れる。瞬きを二回して、熱いものを奥へ押し戻した。
スマホを、祖父の手に載せた。
祖父は待合室を出て、海へ下りる石段まで歩いていった。
投げた。
手首だけで、ぽいと放った。下手だった。スマホは石段のすぐ先で、小さなしぶきを上げて沈んだ。
帰ってこい、が、まだ画面に出ていたはずだった。
祖父は自分のスマホも出して、同じように放った。二台目は、一台目よりさらに手前に落ちた。
「……投げるのは、昔から下手だ」
戻ってきた祖父は、母のノートを開いて、青いボールペンの名前の下に数字を一列書き足した。
「榊の番号だ。着いたら、お前がかけろ。俺がかけたら、あいつは俺の用事だと思う」
それから、茶色い封筒を渡された。お札が折らずに入っていた。何枚あるのか、ミラは数えなかった。
汽笛が鳴った。
乗船口へ歩くあいだ、自販機の横の黒いコートがこちらを向いていた。顎の四角い男。アパートの外廊下で、手帳に『猫』と書いた人だ。
男はミラの足もとを見ていた。手帳を開いて、何かを短く書く。それから襟もとの無線に一言だけ言った。追ってはこなかった。
島へ渡ったことは、あの手帳にもう一行になった。
「書かせておけ」
祖父は乗船口の手すりを握ったまま言った。
「……一番上は、とうに知っとる」
誰のことかは、言わなかった。
甲板のベンチに、二人で座った。客室には入らなかった。
「……カーディガンの袖」
祖父が言った。
「折らん方が、温い」
ミラは、手首で折り返していた袖を伸ばした。灰色の毛糸が、白くなりかけた指の先までを包んで隠す。それから、また折り返した。
祖父は何も言わなかった。
船が岸を離れた。汐目の町がゆっくり小さくなっていく。坂の上に一つ、また一つと灯りが点きはじめて、どれがアパートの窓でどれがコンビニなのか、もう分からない。
ミラは、その灯りが一つの点になるまで見ていた。
祖父は、一度も町を振り返らなかった。合羽のフードをかぶったまま、ミラの足もとの影から、目を離さなかった。




