第30章 湛島
「名前は、書けるとこまででいいよ。島じゃ、来た理由は聞かんの」
宿帳の上に、干し芋が一枚置かれた。民宿のおかみさんは声の大きい人で、割烹着のポケットがいつも四角くふくらんでいる。ミラは『御影』とだけ書いた。祖父がその下に、『同じ』と書いた。
「……それ、名前じゃない」
「書けるとこまで、と言われた」
おかみさんが、干し芋をもう一枚置いた。
湛島の店には、半額のシールがなかった。港の前の、看板の字が潮で半分消えた商店で、菓子パンにも弁当にも値札が一枚ずつ貼ってあるだけ。夜の八時に来ても九時に来ても、数字は変わらない。
「島じゃ、売れ残りは晩に店のもんが食うの」
店番のおばあさんが、そう教えてくれた。定価の菓子パンを一つ買った。勝ちも負けもない買い物は、味がしなかった。
帰り道の岸壁は、日なただった。網を繕っていた漁師が、手を止めてミラの足もとを見た。係船柱の影よりも、漁船の影よりも長い黒が、ミラの靴から伸びている。漁師は何も言わずに、網の方へ目を戻した。
それから、ミラは日なたを歩かなくなった。
二階の部屋の窓の外に、鏡を伏せたような海があった。借りた小皿を窓の下に置くと、クロは食べもしないのにその横で丸くなった。
祖父は窓際に座って、その背中を見ていた。眠るときは、ミラに起こせと言った。夜は、二人でかわりばんこに見た。
一日目は、部屋から出なかった。
母のノートを、一枚目から順に読んだ。ほとんどが数字と、分からない言葉。どのページにも、二つの数字を並べた列があった。二つ目の方が、いつもわずかに大きい。
十何枚目かの表の余白に、小さな字が一行だけあった。
『ミラ 深海魚の図鑑 二冊目をほしがる 誕生日まで待たせる』
そこだけ、字の傾きがいつもより浅い。ミラ、の二文字は、ほかのどの字よりもゆっくり書いてあった。
二冊目の図鑑は、もらった覚えがない。誕生日の前に、三年前の夜が来た。
ミラはその行を指でなぞらなかった。なぞったら、消えてしまいそうだった。ページの角を、小さく折った。
二日目は港まで歩いて、絵葉書を一枚買った。表にニルの家の住所、裏に『生きてる』とだけ書いて、ポストの前まで行って出さなかった。島の消印がつけば、ここがどこなのか、葉書の方が言ってしまう。
民宿の一階の廊下の突き当たりに、桃色の公衆電話がある。
「かけるかどうかは、お前が決めろ」
祖父は、ノートの数字を指でたたいただけだった。
一日目の夜も二日目の夜も、受話器を持ち上げて、硬貨を入れる前に戻した。入力欄なら、消せた。電話は、消せない。
三日目の夜、硬貨を入れた。
呼び出し音が、四回鳴った。
「……はい」
眠そうな、男の人の声だった。
「榊、さんですか」
「そうだが」
「御影、ミラです」
受話器の向こうが静かになった。遠くで鳴っていたテレビの音が、ふっと消える。
「……誰の」
父の名前と、母の名前を言えばよかった。三年、声に出していない名前だった。
「……娘」
それしか、出てこなかった。
「どこにいる。一人か」
「湛島の、民宿です。おじいちゃんと」
男の人が短く息を吐いた。舌打ちのようにも、笑ったようにも聞こえる。
「あのじいさん、よりによって、ここか」
少し黙ってから、声が低くなった。
「三十分、考えさせろ。かけ直す。宿の番号は、壁に貼ってあるだろ」
電話の上の黄ばんだ紙を読み上げた。
「三十分して、鳴らなかったら」
男の人は、そこで言葉を切った。
「二度と、この番号にかけるな」
電話が切れた。
公衆電話の前の板張りの廊下に、膝を抱えて座った。祖父が、隣に腰を下ろした。何も言わなかった。
来ない理由なら、いくらでも数えられた。三年、連絡もしなかった家の孫。局に追われている子。足もとに、昼でも夕方の影を引いている子。
おかみさんが通りかかって、干し芋を一枚、ミラの膝に載せていった。
二十九分。鳴らない。
三十分。鳴らない。
握った干し芋の端が、指のあいだで湿っていく。
三十一分目に、桃色の電話が鳴った。
二回目の音で取った。
「明日の朝の船で行く」
最初に、それが聞こえた。
「船は苦手なんだ。礼は着いてからにしろ。……その猫。今、目は何色だ」
足もとの影から、クロが顔を半分だけ出していた。
「……赤く、ないです。今は」
「今は、か」
受話器を戻すと、祖父が長く息を吐いた。ミラより先に、吐いていた。
朝の船は、九時に着いた。
最後に降りてきたのが榊だった。背の高い痩せた人で、灰色の髪の後ろが寝癖で一房まっすぐ上を向いている。顔の色が、海と同じだった。岸壁に足をつけたとたん、係船柱に片手をついた。
「……揺れないって、書いてあったろ」
「ほとんど、って」
「ほとんど、の方に入らなかった」
干し芋を差し出すと、榊は端をかじった。
「……甘いな」
それから、ミラを見た。顔を見て、首を見て、手を見た。最後に、日なたの岸壁に落ちた影を、靴の先から黒い先まで見ていった。
榊は胸ポケットから煙草を一本抜いて、くわえた。火はつけなかった。
「……遅かったか」
「何が、ですか」
答えはなかった。網を干した小屋の陰から出てきた島の猫が三匹、ミラの影を見たとたん背中を丸めて小屋の裏へ走っていった。
祖父が、岸壁の端で待っていた。
「来たか」
「来いと言ったのは、あんたの孫だ」
港を歩いているとき、汽笛が鳴った。
低くて長い音。腹の底に響いて、胸の奥が震える。沖を見た。船は一隻もいない。
「……今の」
「何だ」
「汽笛」
「鳴ってない」
胸の中では、まだ鳴っていた。汽笛の尾に合わせて、二つ目の拍が少し遅れて打った。
民宿の部屋で、順番に話した。猿のこと。白い線のこと。光の筒のこと。倒れたこと。ロムスが影の中から、間に合え、と言ったこと。
「……あの馬鹿は、昔から、間に合わない方にしか賭けない」
ロムスのことは、それだけだった。
鞄から、聴診器が出てきた。
「胸、出せるか。上だけでいい」
シャツのボタンを、上から三つ外した。胸の真ん中の、縦の傷が見える。
榊の手が止まった。それから何もなかったように、冷たい金属を胸に当てた。
その冷たさを、ミラは知っていた。白い部屋の夢の中で、同じところに当てられていた。
背中の皮膚が、いっせいに粟立った。灯りの向こうで白くつぶれていた顔と、目の前の閉じたまぶたが、重なりかけて、ずれる。
「生きてるな」
ため息のような声だった。
「……二つとも、だ」
ミラの右手を取って、白い指の付け根を親指で押した。押したところが白いまま、すぐには戻らなかった。榊はそれを手帳に書いた。
夕方、夕飯を運んできたおかみさんが榊を見て目を丸くした。
「あんた、また来たの。先生」
「また来た」
部屋を出るとき、おかみさんは窓の外の、空の色をそのまま映した海を見た。
「嬢ちゃん。凪の日に、海を覗きこむんじゃないよ。下の国に呼ばれる」
いつもより低い声だった。
夜、布団の中で、汽笛を聞いた。
窓の外の海に、船の灯りはない。窓際で、祖父がクロの背中を見ている。
汽笛は、海の上からではなく、ずっと下の方から鳴っていた。




