第31章 境界熱
「三十九度二分。……なのに、手は氷だ」
榊は体温計を窓の光にかざして、眉を寄せた。
熱が出たのは、榊が島に着いた次の日の昼だった。額に右手を当てても、熱いのかどうか分からない。白い指は自分の額を、よその子の額みたいに触った。手袋を一枚はさんで触っているみたいだった。
榊はミラの右手を取って自分の頬に当てた。火のない煙草が、口の端で上下する。
「境界熱、と呼んでたやつがいた。体が、どっちにいるのか迷うと出る」
「どっちって」
「寝てろ。熱が下がったら話す」
あとで、は値引きのシールを待つのに似ている。待っているあいだに、たいてい誰かが先に棚から持っていく。
榊は手帳に何か書いて、部屋を出ていった。階段の途中で、おかみさんに氷を頼む声がした。窓際では祖父が、ミラの足もとの影を見ていた。
昼過ぎ、戸が細く開いた。
隙間の低いところに、小さな顔がある。おかみさんの孫だった。五つか六つの男の子で、廊下を走っては大きな声で叱られ、叱られた次の朝も同じ廊下を走っている。
男の子は戸の隙間から手を一つ差しこんだ。手のひらに、貝殻が一枚。白くて、内側だけが桃色をしている。
「ねつのひとに、あげる」
布団から腕を伸ばして受け取った。男の子の手の温度が移って、貝殻は温かい。白い指の上で、そこだけが日なたになった。
「……ありがとう」
かすれた声しか出なかったのに、男の子はそれで足りたらしい。足音が、廊下を走っていく。
民宿の二階からは、鉄の外階段が通りへ下りている。段が狭くて、急だ。おかみさんは毎朝そこに雑巾をかけていて、今朝もかけてあった。濡れた鉄は、乾くまで黒い。
足音が、外階段の方へ曲がった。
ミラは布団から体を起こした。何かを決めたわけではなかった。ぺたぺたと板を叩いていた音が、濡れた鉄を踏む音に変わったのが聞こえただけだった。
戸を開けて廊下に出る。熱のせいで床がやわらかい。外階段の降り口に、男の子の背中が見えた。
三段目で、足が滑った。
小さな体が前のめりに宙へ浮く。
ミラの足もとの影が、先に動いていた。
影は手すりの影を伝って段の上を滑りおり、男の子の影に重なった。
男の子は、四段目と五段目のあいだで止まった。
つまようじは一本も使っていない。縫いとめたのでもない。影が、重なっただけ。
体は斜めのまま宙にあって、片方の手が、手すりの方へ伸びかけていた。
ミラは手すりにしがみついて、濡れた鉄の段を下りた。
下りながら、見えた。
重なった影の縁が、まだ動いていた。男の子の影を下から包むように持ちあがって、その黒い先が、小さな頭の上へ被さりかけている。ガの、カエルの、クモの上半分が沈んでいったのと、同じ形だった。
黒は、あの子を捕まえていた。
「だめ」
声より先に、腕が出ていた。宙に斜めに止まったままの小さな脇の下へ腕を差しこんで、体ごと引きはがした。影がほどける。重さが急に腕へ戻ってきて、熱でゆるんだ膝が一段ぶん沈んだ。
足もとの黒が一度だけ波打って、ミラの靴の下へ戻っていった。
男の子は何が起きたのか分からない顔でミラを見上げた。
「……すべった」
「うん」
「いたくない」
「うん」
髪から、潮と石鹸の匂いがした。抱えた腕が、震えて止まらなかった。
踊り場の上に、クロが座っていた。前足をそろえて、男の子を見ている。ミラを見て、ゆっくり目を細めた。捕りそこねた猫の顔というものを、ミラは初めて見た。
部屋に戻ったところで、膝が抜けた。
畳に手をつく。右の手のひらがまた白くなっていた。指の付け根から、手のひらの半分まで。鈴杣の夜明けに、指の付け根まで引いていった白だった。引いた分が、全部戻ってきている。
階段を駆け上がってくる音がした。下では、おかみさんが孫を叱る声と、誰かに礼を言う声が混ざっている。
榊はミラの手を取って白いところを親指で押し、それからミラの影を見た。電灯の下で、影はミラの形をしている。けれどミラが手を下ろしたあとも、影の手だけが、一拍遅れて畳に下りた。
「……クロより、先に動いたか」
「はい」
「お前が、動かしたのか」
はい、と言えば、あれは自分の手になる。いいえ、と言えば、自分の足もとに、自分の言うことを聞かないものが住んでいることになる。舌の上で、どちらも同じくらい重かった。
「動いたのが、先でした。……止めたんじゃ、ないです。捕まえようとしてました」
嘘ではない方を選んだ。選んだのに、喉の奥が苦かった。
榊は手帳を出した。ペンの動く時間が、いつもより長い。窓際の祖父が、何も言わずに膝の上の手を握った。
「寝ろ。熱が上がる」
あとで、がまた一つ増えた。
夕方、おかみさんが氷の袋を替えに来た。いつもの大きな声ではない。袋を額に載せながら、廊下の方を気にして、小さく言った。
「あの子ね、さっき、手すり持って下りたよ。生まれて初めて」
ミラは氷の下からおかみさんを見上げた。
「おねえちゃんが、すべったら止めてくれるから、だって。止めてくれるなら持たなくていいでしょって言ったら、持つって」
おかみさんは割烹着のポケットから干し芋を出しかけて、熱のある人には固いと思ったのか、戻した。かわりに布団の端をぽんと叩いた。
「ありがとね」
戸が閉まった。
あの子を止めたのは、あの子を食べようとした方だ。礼を受けとる欄に、自分の名前を書いていいのか分からない。布団の上から、叩かれたところに手を置いた。
私が起きているあいだ、あれは食べ続ける。食べても、もっと大きいものを捕りたがる。
枕元に、貝殻が置いてある。内側の桃色が、電灯の下で、まだ少し温かそうに見えた。
夜中に、目が覚めた。
喉が内側に紙を貼ったように乾いている。枕元の水差しに手を伸ばしながら、窓を見た。
ガラスに、手形がついていた。
外側だった。二階の窓の外には、足場も庇もない。下は、港へ続く道だ。
手形は一つではない。窓の下の方から上へ左右交互に並んでいる。下から、ガラスを這い上がってきた跡。
どれも濡れていた。指が、人のものより長い。
窓の隙間から入ってくる潮の匂いは昼の海のものとは違っていて、祖父の家の三和土に寄せてきたあの黒い水と、同じ匂いがした。
いちばん上の手形は、まだ乾いていなかった。
ミラは、水差しに伸ばした手を、動かせなかった。




