第32章 ドアの声
爪先だけの足音が、階段を上ってきた。
一段、一段。人の足音に似ている。けれど踵が先につかない。濡れた板を指の先で叩いていくような、人が歩くのを遠くから見て真似して覚えたような足音だった。
窓の手形は、いちばん上で途切れていた。その先は軒だ。ミラは布団の上で天井を見上げた。古い板に、雨漏りの染みが地図のように広がっている。
足音は、部屋の前で止まった。
戸の向こうで、何かが息を吸った。
「ミラちゃん?」
母の声だった。
少し低くて、語尾がわずかに上がる。図鑑を読みあげていて、読めない字のところで止まると、そっとかけてくれた声の高さ。
「ミラちゃん。開けて」
ミラは布団の上で膝を抱えた。
抱えたはずの膝の片方がほどけて、右手が戸の方へ伸びかけていた。伸びかけた手を自分で見た。白い手の指先は、もう引き手の高さにあった。
開けたら、いる。三年前の夜の手前に置いてきたものが、戸口に立っている。飲みこんだ唾が、熱い喉の途中で丸く固まった。
母は、ミラちゃん、とは呼ばなかった。
一度も呼ばなかった。読めない字に行き当たるたびに、母は髪に挿した削りかけの鉛筆を抜いて、起きているミラの横で、余白にふりがなを振った。振りながら、ミラ、これはね、と言った。
「ミラちゃん」
声は同じ高さで同じ言葉を繰り返した。三度目も四度目も少しも変わらない。アーカイブを巻き戻して、同じ一秒を何度も聞き直すときの声だった。
戸の下の細い隙間から、何かが入ってきた。
指だった。
濡れて白くふやけている。爪が黒い。畳の上を隙間から這うように伸びてくる。関節が曲がった。もう一度、曲がった。
もう一度、曲がった。
人の指には、そんなに関節はない。
カーディガンのポケットに、つまようじの箱がある。
廊下の電灯が戸の隙間から細く漏れていて、その光の中に、指の影が畳の上へ長く伸びている。
見ていてくれる人が、いない。榊は隣の部屋で眠っている。祖父は、窓際で壁にもたれたまま首を垂れていた。かわりばんこの、ミラの番だった。呼べば来る。けれど声を出したら、戸の向こうのものが何をするのか分からない。
クロを誰も見ていなければ、影に投げたものは、相手ごと沈む。
路地では、そうだった。
沈めたら、あの声も一緒に沈む。三年ぶりに聞いた高さだった。箱の蓋にかけた親指が、開ける方へも閉める方へも動かない。
指がまた一つ関節を曲げて、布団の端に届きかけていた。
人じゃない、と思った。
路地の夜にも、そう思うことにした。思うことにして、投げた。
今は、思うことにしたのではなかった。母は、ミラちゃんとは呼ばなかった。人の指は、四回も曲がらない。目の前にあるものを、そのまま見て、分かった。
つまようじを一本抜いた。指の影だけを、見た。
投げた。
つまようじは畳の上の影に落ちて、半分まで沈んだ。
指が、止まった。曲げかけた関節が曲げかけたまま固まって、戸の向こうの声も途中で切れた。
それから、沈みはじめた。
つまようじが影の中へ入っていく。指の影が端から黒く溶けていく。
足もとでクロが動いた。影から飛び出して、止まった指に飛びかかり、前足で上から押さえつける。
指がほどけた。濡れた紙が水に溶けるように、白い指が黒い水に変わって畳に散った。戸の向こうで、何かがずるりと階段を落ちていく音がした。
声が、もう一つだけ来た。
「ミラ」
ちゃん、はついていなかった。
それきり、何も聞こえなくなった。
クロは畳の上の黒い水を前足でちょんと叩くと、満腹ではない顔でミラを見上げた。
右手が痛くないのに痺れている。見ると、手のひらの半分で止まっていた白が手首のしわの手前まで来ていた。投げた手から順番に、払わされていく。
隣の部屋の襖が、勢いよく開いた。
榊だった。寝癖が昼より一房多い。畳の上の黒い水と、ミラの手のつまようじの箱と、窓の手形を順番に見て、最後にミラの右手首で目を止めた。祖父が、壁から背中を剥がして立ち上がった。
「……海から上がってくるやつだ」
榊は窓の手形に指を近づけて、触らなかった。
「人の声を拾って、真似る。拾った声で、呼ぶ」
「どこで、拾ったんですか」
声が、思ったより低く出た。
「……母の、声」
「お前の中からだ。声は、覚えてる者の中にしか残らない」
自分の中から、持っていかれた。盗まれた袋の中身を、盗まれてから教えられたみたいだった。抱えた膝に、爪が食いこんだ。
祖父は、黒い水の散った畳を見下ろしていた。
「……あいつの声だったか」
ミラがうなずくと、祖父は目を閉じた。
榊は窓の外の暗い海を見ていた。
「荷物をまとめろ。ここを出る」
おかみさんは寝間着の上に割烹着を羽織って、玄関まで出てきた。何があったのかは、聞かなかった。
かわりに、ポケットから干し芋の袋を丸ごと出して、ミラの手に押しつけた。袋の口が、輪ゴムで三重に留めてある。
「また来な。凪の日以外にね」
凪の日しか知らない島だった。両手で受けとった袋は、コンビニの棚に吊るしてある一袋より、ずっと重かった。
宿を出るとき、二階の窓を見上げた。
手形は乾いていた。濡れていたところに塩が白く残って、指の長い手の形のままガラスに貼りついている。
外は、月が出ていた。
港の前の道を北へ歩いた。榊がミラの鞄を肩に掛けている。祖父は風呂敷包みを抱えて、ミラのうしろを歩いた。熱はまだ下がりきっていなくて、足が地面を踏むたびに、踏んだ手ごたえがあとから追いかけて返ってくるようだった。
「一度呼ばれた戸は、また呼ばれる」
榊が前を向いたまま言った。
「声を覚えたやつは、その戸を覚える。今夜は帰っても、明日の夜も来る」
「おかみさんの家に、来ますか」
「お前がいなければ、来ない」
榊は、それだけ言った。
いない方が役に立つ。その計算は、何度やり直しても同じ答えになる。ミラは鞄の上から、貝殻の硬いふくらみを指で探した。
道の左側は、すぐ海だった。月が水の上にもう一つ浮いている。揺れていない。空の月と水の月が、同じ形のまま向かい合っていた。
凪の日に、海を覗きこむんじゃないよ。
ミラは右側の家の並ぶ方だけを見て歩いた。
最後に呼ばれた声が、耳の奥に残っていた。
ちゃんのつかない、ミラ、という呼び方を、三年前まで毎晩聞いていた。




