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名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第3章 凪の島

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第33章 黒い髪

「入れ。段が急だ」


島の北の端、灯台の跡だった。白い塔の胴の足もとにある鉄の扉から、階段が地下へ続いている。一段下りるごとに波の音が小さくなり、二つ目の踊り場を過ぎると、自分の足音しか聞こえなくなった。


いちばん下で榊がスイッチを押すと、天井の蛍光灯が端から点いていった。四つ点いて、残りの四つは点かなかった。


窓が一つもない、広い部屋だった。壁際の古い機械はどれも埃をかぶって画面が消えている。


祖父は壁際の丸椅子を引き寄せて座った。そこからなら、ミラの足もとが見える。


「局の観測所だった。三年前まで。影の向こうを、見るところだ。窓がないのは、光を好きに減らせるからだ」




壁際の古い机だけ、引き出しの取っ手が擦りへっていた。開けると、鉛筆が並んでいる。どれも指でつまめなくなるほど短く、削り跡が几帳面にそろっていた。


「……ロムスさんの」


流しの前で、榊が振り向いた。


「知ってるのか」


「鉛筆を、最後まで使う人です」


「あいつの席だ。いちばん長くいた。いちばん長く、見てた」


一本取って転がしてみた。かたん、かたん、と角が板を打って、端から落ちる。床で軽い音がした。


止まらなかった。


鈴杣の卓袱台では、転がった鉛筆が宙で止まった。ここでは何も、宙で止まらない。




部屋の奥の小さな冷蔵庫を、榊が開けた。


「腹、減ってるだろ」


中には、プリンしかなかった。上の段にも下の段にも扉のポケットにも、同じ形のカップ。


「……これだけ、ですか」


「これだけだ」


渡されたカップの蓋に、赤いシールが貼ってあった。


半額。


ミラはシールと榊の顔を見比べた。


「島の店は定価だからな。港の町で買い溜めてくる。夜の十時過ぎに行くと、貼ってある」


十時過ぎ。坂の下のコンビニで、ミラが何百回も通った時間だった。蓋のシールに爪をかけて端からゆっくり剥がした。途中で、指は止まらなかった。


ポケットには、ロムスにもらったおにぎりのシールが、まだ入っていた。鞄からシールのノートを出して、白いページに二枚を並べて貼った。日付を書く。店の名前のところで、ペンが止まった。


どちらも、自分で買ったものではない。


店の名前のかわりに、書いた。


『ロムスさん』


『榊さん』


スプーンをくわえたまま、榊が横からのぞいた。


「何だ、それ」


「……勝ちの、記録です」


「お前が勝ったのか」


「分かりません。でも、もらいました」


榊はそれ以上聞かず、プリンを二口で食べ終えた。




椅子の背のカーディガンを羽織って、袖口を手首で一度折り返す。


空のカップを流しに置こうとした榊の手が、止まった。


「……先生も、そういうのを着てた」


「灰色の、膝まであるやつ。白衣の下に。研究室が寒いって、いつも言ってた」


港町の古着屋で選んだ一枚だった。なぜこれだったのかは、考えたことがない。


「父、の」


父、という一文字に、舌がうまく乗らなかった。


「医学校で、一年だけ教わった。臨時の講師でな。話すとき、いつも、こっちの目から少しずらして見る人だった。俺は、まっすぐ見ることにした。見なきゃ、治せない」


丸椅子の上で、祖父が湯呑みを持ち直した。何も言わなかった。


ミラの目は、そのとき榊の肩のあたりにあった。顔までは、上がっていなかった。


奥の鉄の戸棚には、新しい錠前と錆びた錠前が一つずつついていた。榊は新しい方に手を置いた。


「明日、ここにあるものを見せる。お前の体のことが、書いてある」


「……見ないことも、できますか」


「できる。見ないで済むなら、その方が楽だ。俺は、勧めない」


錆びた方には小さな札が下がっていて、消えかけた字で何か書いてある。読もうとした。


榊の指が、札を裏返した。




地下には、朝がなかった。


壁の時計が七時を指している。榊は壁際の長椅子で上着を体に掛けて眠っていて、寝癖が三方向に増えていた。祖父は丸椅子に座ったまま、腕を組んで目を開けていた。夜のあいだ、一度も横にならなかったらしい。


流しの上の小さな鏡の前で、顔を洗った。顔を上げて、手が止まった。


髪の分け目の根もとが、黒い。


指でかき分ける。右のこめかみの上の、指二本ぶんの幅だけ、根もとから一センチほどが墨を吸ったように黒く、その先はいつもの銀だった。


染めたことは、一度もない。


母の髪も銀だった。削りかけの鉛筆を挿した髪の形は覚えているのに、母の顔はうまく思い出せない。


鏡の中で、黒い根もとだけが知らない人の髪を挿したように見えた。


ミラは、首を傾げた。


鏡の中の自分も、首を傾げた。少しだけ、遅れて。


シャツのボタンを上から外していく。三つ目で指が止まった。止まった指を、自分で押して外した。


胸の真ん中に、縦の傷がある。


三年、着替えるときも風呂に入るときも、そこだけは見なかった。入力欄の一文字を消して、画面を伏せるのと同じやり方で。


今朝は、見た。


鎖骨の少し下からみぞおちの上まで、白く盛り上がった線がまっすぐ一本通っていて、その両側に縫った跡の点が、定規で測ったように同じ間をあけて並んでいる。


急いで縫った傷ではない。誰かが、時間をかけて閉じた傷だった。


とくん。遅れて、とくん。


二つ目の音は、傷のちょうど真下で鳴っていた。




背中のうしろで、蛍光灯が一つ、ちかちかと瞬いた。


鏡越しに床を見た。点いている蛍光灯は四つ。影は四本、足もとから四方へ開いている。


五本目が、部屋の隅にあった。


機械のあいだの暗がりに、ミラと同じくらいの大きさの影が一本、壁に寄りかかっている。耳のような尖りはない。


人の形だった。膝を抱えて、少し首を傾げて座っている。ミラと同じ格好で。


暗い水の中で目が合ったのは、この人だろうか。


振り向いた。


隅には、埃が積もっているだけだった。鏡に目を戻すと、五本目も、もうなかった。


「……何、見てる」


榊が長椅子の上で目を開けていた。


ミラはシャツのボタンを留めた。


「髪」


榊は起き上がってミラの前まで来ると、黒くなった根もとを指でかき分けて見た。それから、目をまっすぐに見た。ずらさなかった。


「いつからだ」


「……今朝、です」


「ほかには」


「影が、一つ多かった」


榊は部屋の隅をしばらく見て手帳に書き、書き終えてから、もう一度隅を見た。


「上へ行く。日に当たれ。地下に籠もってると、影の数が狂う」




外へ出ると、まぶたの裏まで白く染みるほど明るかった。塔の白い胴が地面に一本の影を落とし、ミラの足もとにも影が一つ落ちていた。


一つ。ただ、すぐ横に立つ榊の影の、倍はあった。


榊は上着のポケットから巻尺を出して、ミラの踵から影の先まで、黙って引いていった。


「四メートル、十」


手帳に書いて、前のページと見比べた。祖父が、その手帳を横からのぞいた。


凪いだ海に、空と塔と三人の影がそのまま映っている。ミラは海から目を外して、髪の先を光に透かした。銀は銀のまま。根もとだけが、黒い。


「黒くなるのは、嫌か」


榊が海を見たまま聞いた。


ミラは、少し考えた。


「……銀は、母と、同じ色だったので」


しばらくしてから、榊は、そうか、と言った。




地下へ戻ると、榊は冷蔵庫からプリンを出した。三つ。


「……朝も、これですか」


「朝も、これだ」


祖父が、黙って一つ受け取った。蓋には、今日はシールが貼っていなかった。勝ちにも負けにも、数えられない。


冷蔵庫の扉が閉まる前に、もう一度部屋の隅を見た。


暗がりの埃の上に、小さなくぼみがあった。


膝を抱えて誰かが座ったくらいの、丸いくぼみだった。


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