↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第3章 凪の島

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/41

第34章 遅れ

最初に気づいたのは、スプーンだった。


プリンをすくおうとして、カップの縁にスプーンが当たった。手が動いたと思ったときには、もう当たっていた。


動かそうと思ってから手が動くまでに、瞬きを一回するくらいの間がある。


その間に、影が先に動いていた。


机の上の影の手が先にカップへ伸び、そのあとをミラの手が追いかけている。配信のプレビューを見ているみたいだった。ただし画面の中の手の方が本物で、こちらの手が遅れて映っている。


スプーンを置いた。置こうと思ってから、置いた音がするまで、また間があった。


路地でも、林でも、影が先に動いたことはあった。投げるときと、あの外階段のときだけだった。今は、スプーンを持つだけで先に動く。


丸椅子の上で、祖父が湯呑みを置いた。




榊は机の引き出しから、古いストップウォッチを出した。


「手を叩け。俺が合図したら」


ミラは両手を胸の前で構えた。


「今」


叩いた。


ぱん、と鳴る前に、机の上で影の手が合わさった。音のない拍手のあとで、ミラの手が鳴った。


「〇・三」


榊が手帳に書いた。


「もう一回」


「〇・四」


三回目は、〇・四と少しだった。


手帳の同じページに、〇・三と〇・四が並んでいる。その上の行に、〇・一。ゆうべの欄だった。


「ゆうべ、寝てるあいだに測った」


眠っているあいだに、手首を取られていた。白い部屋の夢の、ゆるいベルトの感触が手首の内側をすっと撫でていった。


一円玉みたいに小さい数が、ひと晩で四枚に増えている。


その隣に、もう一つ列があった。


三・五。三・八。四・一。四・三。


毎朝、巻尺で測った影の長さだった。数字の横から、定規で引いた線が一本、ページの端まで斜めにのびている。端に小さく、七、と書いてあった。


「……七って」


榊はページをめくらずに、手帳を閉じた。


「階段は、手すりを持って上れ。包丁は、持つな」


「包丁、ないです。ここ」


「プリンだけだからな」


榊は自分で言って、少しも笑わなかった。




昼前に、日に当たりに上へ行った。


鉄の階段の手すりを握って一段目に足を載せようとしたとき、上の方で足音がした。


かん、と鉄が鳴った。


ミラの足は、まだ一段目の上で浮いている。それから一段目を踏んだ。かん、と同じ音がもう一度鳴った。


二段目でも、同じだった。足音が先に鳴って、足があとから追いかける。上で鳴る足音は、ミラの足音と同じ重さで、同じ速さだった。


誰かが、半歩先を上っている。誰もいない。


うしろで榊の足が止まった。榊にも聞こえている。


「……聞くな。上るだけでいい」


足を、上の段へ出した。手すりを握りなおして、先に鳴る足音を追いかけた。踊り場で、二つの足音が一度、重なった。


外の光の中に出ると、足音は一つになった。


「遅れが、もっと大きくなったら」


塔の影の中で、ミラは聞いた。


「先に動く方に、全部、持っていかれますか」


榊は煙草をくわえたまま、手すりの錆を親指でこすった。


「大きくさせない」


答えになっていなかった。答えになっていないことを、榊も分かっている顔だった。手すりを握ったミラの指の、爪の先だけが白くなる。痛いくらい握っているのに、握っている感じが、ひと呼吸遅れて届いた。


榊は港の方へ目を移した。


「港に、見ない顔の釣り人が二人増えた。竿の持ち方が、釣りじゃない」




昼過ぎ、榊が部屋の隅の小さなテレビをつけた。


壁の機械の中で、それだけが新しい。昼のニュースが本土の道路の工事と港町の天気と、交流戦の春の大会の日程を読んでいた。


日程の欄に、明野、という地名が出た。ニルが出る大会だった。


出場する選手の名前が細かい字で画面の下を流れていって、その中にあるはずの二文字を探そうと身を乗り出したときには、もう最後の名前が画面の端に消えていた。


アイス、利子ごと。乗り場の待合室で読んだ一行が浮かぶ。今日の分の利子を、ミラは頭の中で足しかけた。


画面では、白いブラウスの女の人が原稿を読んでいる。その声が、地下の壁に跳ね返った。


「……明日の、天気です」


ミラの口が、言った。


アナウンサーと同じ高さだった。同じ速さで、同じところで息を継いだ。


自分の口が動いているのに、言葉は画面の方から来ている。


「島しょ部は、朝のうち、凪」


唇を閉じようとした。閉じる前に、次の言葉が出ていた。


「風は、ほとんどなく」


榊が椅子から立ち上がった。


「ミラ」


名前を呼ばれて、口が止まった。


画面の中で、アナウンサーだけが一人で喋り続けている。


ミラは両手で口を押さえた。押さえた手のひらの下で、唇がまだ少し動いていた。天気の続きを、読みたがっている。




立ち上がろうとした。


足が、遅れた。


影の足が先に一歩出て、ミラの足があとを追いかける。追いつく前に、膝が折れた。


床に手をついたのに、コンクリートの冷たさが半分しか届かない。


お腹が、空いていた。


さっきプリンを食べたばかりなのに、胃の底がからっぽで、からっぽの底がずっと下の方まで続いている。食べたい、というのとは違った。呑みこみたかった。目の前のものを。動くものを。怖がっているものを。


口の中に、唾が湧いた。湧いた唾を、飲みこめなかった。


足もとでクロが鳴いた。細くて長い、お腹が空いた、という声だった。


その声と、自分の胃の底が、同じ形をしていた。


クロの空腹が、ミラの中に流れこんできている。


「ミラ。数を数えろ。声に出して」


榊の声が、遠くでした。丸椅子の倒れる音がした。


口を開いた。


「ひい、ふう、みい」


数えようと決める前に、もう数えていた。


「よう、いつ、むう」


知っている数え方のはずだった。それなのに、息の継ぎ目が自分のものではない。舌が、誰かの癖をなぞっている。川の匂いがした。地下には、川なんてないのに。


榊の手が、ミラの肩をつかんだ。


「……今、何て数えた」


答えようとした。


声より先に、床の上で、影の口が開いた。


天井の蛍光灯が、四つとも、ゆっくり遠くなっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。