第34章 遅れ
最初に気づいたのは、スプーンだった。
プリンをすくおうとして、カップの縁にスプーンが当たった。手が動いたと思ったときには、もう当たっていた。
動かそうと思ってから手が動くまでに、瞬きを一回するくらいの間がある。
その間に、影が先に動いていた。
机の上の影の手が先にカップへ伸び、そのあとをミラの手が追いかけている。配信のプレビューを見ているみたいだった。ただし画面の中の手の方が本物で、こちらの手が遅れて映っている。
スプーンを置いた。置こうと思ってから、置いた音がするまで、また間があった。
路地でも、林でも、影が先に動いたことはあった。投げるときと、あの外階段のときだけだった。今は、スプーンを持つだけで先に動く。
丸椅子の上で、祖父が湯呑みを置いた。
榊は机の引き出しから、古いストップウォッチを出した。
「手を叩け。俺が合図したら」
ミラは両手を胸の前で構えた。
「今」
叩いた。
ぱん、と鳴る前に、机の上で影の手が合わさった。音のない拍手のあとで、ミラの手が鳴った。
「〇・三」
榊が手帳に書いた。
「もう一回」
「〇・四」
三回目は、〇・四と少しだった。
手帳の同じページに、〇・三と〇・四が並んでいる。その上の行に、〇・一。ゆうべの欄だった。
「ゆうべ、寝てるあいだに測った」
眠っているあいだに、手首を取られていた。白い部屋の夢の、ゆるいベルトの感触が手首の内側をすっと撫でていった。
一円玉みたいに小さい数が、ひと晩で四枚に増えている。
その隣に、もう一つ列があった。
三・五。三・八。四・一。四・三。
毎朝、巻尺で測った影の長さだった。数字の横から、定規で引いた線が一本、ページの端まで斜めにのびている。端に小さく、七、と書いてあった。
「……七って」
榊はページをめくらずに、手帳を閉じた。
「階段は、手すりを持って上れ。包丁は、持つな」
「包丁、ないです。ここ」
「プリンだけだからな」
榊は自分で言って、少しも笑わなかった。
昼前に、日に当たりに上へ行った。
鉄の階段の手すりを握って一段目に足を載せようとしたとき、上の方で足音がした。
かん、と鉄が鳴った。
ミラの足は、まだ一段目の上で浮いている。それから一段目を踏んだ。かん、と同じ音がもう一度鳴った。
二段目でも、同じだった。足音が先に鳴って、足があとから追いかける。上で鳴る足音は、ミラの足音と同じ重さで、同じ速さだった。
誰かが、半歩先を上っている。誰もいない。
うしろで榊の足が止まった。榊にも聞こえている。
「……聞くな。上るだけでいい」
足を、上の段へ出した。手すりを握りなおして、先に鳴る足音を追いかけた。踊り場で、二つの足音が一度、重なった。
外の光の中に出ると、足音は一つになった。
「遅れが、もっと大きくなったら」
塔の影の中で、ミラは聞いた。
「先に動く方に、全部、持っていかれますか」
榊は煙草をくわえたまま、手すりの錆を親指でこすった。
「大きくさせない」
答えになっていなかった。答えになっていないことを、榊も分かっている顔だった。手すりを握ったミラの指の、爪の先だけが白くなる。痛いくらい握っているのに、握っている感じが、ひと呼吸遅れて届いた。
榊は港の方へ目を移した。
「港に、見ない顔の釣り人が二人増えた。竿の持ち方が、釣りじゃない」
昼過ぎ、榊が部屋の隅の小さなテレビをつけた。
壁の機械の中で、それだけが新しい。昼のニュースが本土の道路の工事と港町の天気と、交流戦の春の大会の日程を読んでいた。
日程の欄に、明野、という地名が出た。ニルが出る大会だった。
出場する選手の名前が細かい字で画面の下を流れていって、その中にあるはずの二文字を探そうと身を乗り出したときには、もう最後の名前が画面の端に消えていた。
アイス、利子ごと。乗り場の待合室で読んだ一行が浮かぶ。今日の分の利子を、ミラは頭の中で足しかけた。
画面では、白いブラウスの女の人が原稿を読んでいる。その声が、地下の壁に跳ね返った。
「……明日の、天気です」
ミラの口が、言った。
アナウンサーと同じ高さだった。同じ速さで、同じところで息を継いだ。
自分の口が動いているのに、言葉は画面の方から来ている。
「島しょ部は、朝のうち、凪」
唇を閉じようとした。閉じる前に、次の言葉が出ていた。
「風は、ほとんどなく」
榊が椅子から立ち上がった。
「ミラ」
名前を呼ばれて、口が止まった。
画面の中で、アナウンサーだけが一人で喋り続けている。
ミラは両手で口を押さえた。押さえた手のひらの下で、唇がまだ少し動いていた。天気の続きを、読みたがっている。
立ち上がろうとした。
足が、遅れた。
影の足が先に一歩出て、ミラの足があとを追いかける。追いつく前に、膝が折れた。
床に手をついたのに、コンクリートの冷たさが半分しか届かない。
お腹が、空いていた。
さっきプリンを食べたばかりなのに、胃の底がからっぽで、からっぽの底がずっと下の方まで続いている。食べたい、というのとは違った。呑みこみたかった。目の前のものを。動くものを。怖がっているものを。
口の中に、唾が湧いた。湧いた唾を、飲みこめなかった。
足もとでクロが鳴いた。細くて長い、お腹が空いた、という声だった。
その声と、自分の胃の底が、同じ形をしていた。
クロの空腹が、ミラの中に流れこんできている。
「ミラ。数を数えろ。声に出して」
榊の声が、遠くでした。丸椅子の倒れる音がした。
口を開いた。
「ひい、ふう、みい」
数えようと決める前に、もう数えていた。
「よう、いつ、むう」
知っている数え方のはずだった。それなのに、息の継ぎ目が自分のものではない。舌が、誰かの癖をなぞっている。川の匂いがした。地下には、川なんてないのに。
榊の手が、ミラの肩をつかんだ。
「……今、何て数えた」
答えようとした。
声より先に、床の上で、影の口が開いた。
天井の蛍光灯が、四つとも、ゆっくり遠くなっていった。




