第35章 資料
白い天井。四角い灯り。消毒液の匂い。
手首を動かした。ベルトは、巻かれていなかった。
白いと思った天井は、地下の部屋の灰色の天井だった。四角い灯りは蛍光灯で、消毒液の匂いだけが本物だった。榊がミラの腕の内側を脱脂綿で拭いている。
「……倒れた」
「倒れた。半日寝てた」
腕から細い針が抜かれて、内側に小さな赤い点が一つ増えた。
天井を見たまま、ミラは言った。
「ここ、白い部屋に、似てます」
榊の手が止まった。
「夢に、出てくるんです。白い天井と、手首のベルトと、袖に青いインクのついた人。扉の上に、閉じた目の絵があって。隣のベッドで、誰かが泣いてる」
言いながら、目の前の袖口を見た。灰色の上着の袖に、インクの染みはない。ないと分かって、肩の力が半分だけ抜けた。
榊は脱脂綿を灰皿に捨てた。
「……夢じゃない」
鉄の戸棚の新しい方の錠前を開けて、厚いファイルを三冊と丸めた図面の筒を机の上に並べてから、榊は一歩下がった。
「読むかどうかは、お前が決めろ」
いちばん上のファイルの表紙に、指を置いた。開かなければ、今日は今日のまま終わる。開けば明日からは、知っている自分で目を覚ますことになる。人差し指が、表紙の角を二度なぞった。
三度目で、めくった。
細かい字と、図と、数字。いろんな人の字が混ざったページの端に、止めとはねのそろった字が少しだけあって、めくる指がそこで止まった。
半分も、意味が分からない。分からない言葉の中に、何度も出てくる言葉が二つあった。
二核。
媒体。
「核が、二つ。心臓が二つある、ということだ」
榊が机の上に広げた図面は、人の胸の図だった。心臓が二つ描いてある。一つはいつもの場所に。もう一つは、そのすぐ隣に、少しずれて。
「二つ目のことを、研究してた連中は、媒体と呼んだ。器、という意味だ。何かを入れて、運ぶもの」
ミラは胸に手を当てた。
とくん。遅れて、とくん。
器、と聞いて浮かんだのは、弁当の透明な空の容器だった。食べ終えたあとは、何が入っていたのか、貼ってあるシールでしか分からない。
「……何を、入れたんですか」
「それは、二冊目だ」
二冊目のファイルには、写真が貼ってあった。
真っ黒な写真なのにところどころ透けていて、透けた奥に眠っているような格好で横になった人の形が白く浮いていた。
「影の海、と書いてある。影の向こうに、海がある。時間の流れない海だ。ここは、それを見るために建てられた。ロムスは、毎日それを見てた」
写真の白い人の形は動かず、ほどけた髪が水の中で広がったまま止まっている。
名付けの夜に落ちた、温度のない水。あの水の中で、目が二つ、こちらを見ていた。
最後のページに、図面と同じ胸の絵があった。二つ目の心臓から細い線が一本伸びて、紙の端まで続き、紙の外へ出ている。
線の先に、字が一つだけ書いてあった。
『海』
紙の外へ出ていく線を目でたどると、机の端を越えて床のコンクリートの下の、そのまたずっと下の方へ続いている気がして、足の裏が床から少し浮いたように感じた。
「傷を」
ミラはファイルを閉じた。
「胸の傷を、縫ったのは、誰ですか」
榊は答えなかった。持っている答えの、どこまでを渡すかを、決めている顔だった。
「俺だ」
榊が言った。
「三年前の、あの部屋で。閉じたのは、俺だ」
ミラは図面を押さえている榊の、指が長くて爪の際がささくれた手を見た。
鏡の前で指に触れた縫い目の点を、この指が一つずつ打った。傷の皮膚の薄いところが、内側から引っぱられたように突っぱった。
「開けたのは」
「開けたのは、俺じゃない」
誰が開けたのかは、言わなかった。
母のノートの、最初の表が浮かんだ。被験者、という欄。止めとはねのそろった字で、その欄を引いた手。
ミラはそれ以上聞かなかった。あのノートの字を、明日も同じ目で読みたかった。
三冊目のファイルは、薄かった。
表紙に、ペンを立てて書いたような小さく詰まった字がある。
『固定処置 計画』
目的の欄。手順の欄。必要な日数の欄には、二、と書いてあった。どの欄も、榊の字で細かく埋まっている。
最後のページの表には、左の列に『処置後』とあって、その下に欄が二つある。
一つ目の欄には、体温、心拍、影の遅れ、と短い言葉が並んで、どれにも数字と矢印がついている。
二つ目の欄は、空いているように見えて、何か書いた上から線を何本も引いて塗りつぶしてあった。
ミラはその欄を指でなぞった。紙がそこだけ少し硬い。インクを何度も重ねた硬さだった。
「……ここ、何て書いてあったんですか」
榊は煙草を口から外して、指のあいだで回した。
「書き損じだ」
答えは、それだけだった。榊は三冊を重ねて戸棚に戻した。錠前を閉める音が、地下の部屋に響いた。
「処置をすれば、遅れは止まる。熱も下がる。影も、お前の足もとに戻る」
「しなければ」
榊は手帳を開いて、斜めの線の端をミラに見せた。七、と書いてあるところ。
「七メートルで、影は扉になる。閉まらない扉だ。見張りが何人いても、閉まらない。そこから先は、お前の足もとから町ごと、向こうの海に沈む」
「……あと、何日」
「このままなら、十日もない」
丸椅子の上で、祖父が目を閉じた。初めて聞いた人の閉じ方ではなかった。
ミラは膝の上で、指を一本ずつ折った。母のノートの、二つの拍の間を測った欄。そこに榊の手帳の〇・一と、〇・三と、〇・四を並べた。間が開くほど、先に動く方が前へ出る。前へ出た方に揃えるなら、揃えられるのは遅れている方だ。値札の引き算と同じで、何度やり直しても、答えは一つしか出なかった。
「それで、私は」
榊は戸棚の前に立ったまま、振り向かなかった。
「多分、大丈夫だ」
少しだけ間をあけて、付け足した。
「……保証はない」




