第36章 名前欄
処置は、明日の朝から始めることになった。二日かかる、と榊は言った。
机の上の古いノートパソコンに映った白い書類のいちばん上に『固定処置 同意書』とあって、その下に細かい字が並んでいた。
「読め。分からないところは、聞け」
上から順に、何度も同じ行に戻りながら読んだ。分からない言葉は、少なかった。分かる言葉の方が、怖かった。
遅れている方を、先に動いている方に合わせる。合わせたあとは、二つの拍を、一つの波として固定する。
「合わせたら、私は、どっちに、合わせられるんですか」
「多分、お前のままだ」
多分、と榊はよく言った。今の多分は、そのどれよりも小さかった。端の欠けた値引きシールくらいに。
「……ミラじゃなくなるの、怖い」
声に出してから、自分の声だと分かった。入力欄なら打って消せた一行が、もう地下の空気の中にある。
「怖いなら、やめていい」
「やらせん」
丸椅子の上から、祖父が言った。湯呑みを置いて、置いた手を膝に戻した。反対するときの祖父は、声を大きくしない。
「合わせられた方が、どこへ流れるか。榊、お前も知っとるだろう」
榊は煙草を灰皿に置いた。
「知ってる。だから、ほかの手を出してくれ。あんたが出せるなら、俺は今すぐこれを閉じる」
祖父は黙った。長い黙り方だった。
「……一度、見たことがある」
祖父は自分の欠けた小指を見ていた。
「戦のときだ。南の、名前も残っとらん町の跡。家も道も、影ごと抜けて、地面だけが濡れとった。あれを、汐目で見るわけにはいかん」
それきり、祖父は何も言わなかった。反対の言葉の続きを、どこにも持っていなかった。
ミラは右手を見た。手首の手前まで白くなった手。外階段で、小さな脇の下へ差しこんだ手だった。
あのとき、黒の先は、あの子の頭の上にあった。
「私が起きてると、あれは、食べたがります」
自分の声が、地下の壁に当たって戻ってきた。
「怖がるのを、やめられない。やめられないあいだ、誰かが」
その先は、言わなくても全員が知っていた。
「やります」
言ったとたん、坂の下のコンビニで最後の一個だった半額のパンケーキの、最初のひと口の甘さが口の中に戻ってきた。ミラは唇の内側を噛んだ。
祖父は、湯呑みを持ち上げなかった。
書類のいちばん下に、名前の欄があった。
「本人が打て。俺の決まりだ。あとで、自分で選んだと言えるように」
キーボードに、指を置いた。
ミ、を打とうとした。
画面に出たのは、レ、だった。
ミの位置に置いたはずの指が、隣のキーの上にあった。消して、もう一度ゆっくり置いた。
レ。
消した。今度は人差し指一本で、キーの文字を確かめてから押した。
レ。それからイ。
指が、続きを打っていた。キーから離した指の腹に、汲んだばかりの水に触ったような冷たさが薄く残っている。
レイ。
知らない名前だった。それなのに、打ち間違えた気がしなかった。
暗い水の中で目が合った人に、名前があるとしたら。
消した。打った。レイ。消した。打った。
打っては消す、の反対だった。入力欄の『こ』は、消して画面を伏せれば、それで終わった。今は、消したところから、また同じ二文字が生えてくる。
四度目で、手を膝に下ろした。
「……誰だ、それ」
「知りません」
榊はしばらく画面を見てから、手帳にその二文字を写した。祖父が、丸椅子の上で目を閉じた。
「名前は、あとでいい」
書類を保存しないまま、榊は画面を閉じた。
昼過ぎに、港の前の赤いポストまで行った。鞄の底の絵葉書。表にニルの家の住所。裏に『生きてる』。
「いいのか。消印がつくぞ」
「……はい」
ポストの口の縁で、葉書の角が親指に引っかかった。読んだニルが最初に言うのは、たぶん、遅え、だ。
ことり、と底で音がした。
ニルの『生きてる?』に、やっと返事をした。
地下に戻ってから、シールのノートを開いた。『ロムスさん』『榊さん』の次の白いページに、鉛筆で名前を書いた。
ミ、の一画目から、ゆっくり。止めのところで止めて、はねのところではねて。払いの先まで、芯を紙から離さないように。
指は遅れた。それでも最後まで、ミラの二文字を書いた。今度はレにはならなかった。
ページの角を、小さく折った。
夜、灯台の跡の下の岩場に出た。
月はない。星だけが、凪いだ海の上にそのまま映っている。
隣にクロが来た。前足をそろえて、ミラと同じように海の方を向く。
「明日、見てて」
クロは尻尾の先で、岩をぱたんと叩いた。返事なのか、虫を払ったのか、分からなかった。
岩の端に膝をついて、水の上に顔を出した。
自分の顔が映っていた。
伏せがちの茶色の目。小さな顎。肩につく銀の髪の、右のこめかみの上だけ、根もとが黒い。
顔は誰にも見せないようにしてきた。自分にも。
今夜は、見た。覚えておこうと思った。何のためかは、もう計算してあった。
水の中の顔が、首を傾げた。
ミラと同じ速さで、遅れずに。
鏡の中の自分は、遅れていたのに。
地下に戻ると、蛍光灯の下で、榊と祖父が机を挟んで座っていた。どちらも、黙っていた。
窓のない壁の、いちばん古いコンクリートのところから、指が生えた。
薄い革の手袋をはめた指だった。指先から、手の甲、手首。両手を胸の前で合わせた形のまま、壁の中から腕が出てくる。灰色の壁が、水の膜みたいに揺れていた。
白髪の男が、壁を抜けて部屋に立った。
息を止めていたらしく、立ったところで、長く吐いた。
「失礼します。扉からでは、遠回りになりますので」
祖父が、立ち上がりかけて止まった。
「……ニューム」
「お久しぶりです、御影先生。三年ぶりになります」
男は手袋の手首を片方ずつ引き上げて、ミラの方を向いた。
「御影ミラさん。管理局の、局長をしております。榊先生も、夜分に失礼を」
丁寧な声だった。番号の男の、決まりを読み上げる声とは違う。言葉の一つ一つに、この人の考えが入っている。
「三年前、お孫さんをお預かりしたとき、先生は私に手を差し出されました。全部見ろ、そのうえで預かれ、と」
祖父の顔から、色が引いていった。
「ですから、この島も、榊先生のことも、存じておりました。来るのが遅れたのは、部下のやり方を一度は見届けたかったからです。見届けました。靴だけが、戻りました」
局長は、ミラの足もとの影を見た。巻尺よりも正確に、測る目だった。
「明日の処置に、立ち会わせていただきます。成功すれば、何もいたしません」
少しだけ、間があいた。
「失敗すれば、扉がいちばん狭くなった瞬間に、終わらせます。御影ミラさん、榊先生、御影先生。皆さんを」
「……お前は」
祖父の声が、かすれていた。
「私は残ります。報告書を書く者が要りますので」
榊が、火のない煙草を灰皿に置いた。
「町ごと消えて、名前のない悪夢が歩き回るよりは、いい」
局長は、榊に頭を下げた。
祖父は、何も言わなかった。孫を守るために差し出した自分の右手を、膝の上で見下ろしていた。




