第37章 固定
「同意は、口で聞いた。名前の欄は、空けておく。……埋まる方が、あとで埋めればいい」
保存しないまま閉じた書類のことを、榊はそれだけで済ませた。埋まる方、とミラは口の中で繰り返して、聞き返さなかった。
寝台に横になる前に、ミラは一つだけ頼んだ。ロムスの古い机の引き出しの、鉛筆を一本。
榊は何に使うのかを聞かなかった。並んだ中からいちばん短い一本を選んで、ミラの手に握らせた。
「怖かったら、何か握ってろ」
指でつまめなくなるほど短くて、削り跡が几帳面にそろっている。最後まで使う人の、鉛筆。転がっていかないように、ミラは指を全部巻きつけた。
観測所の奥の、窓のない小部屋だった。榊は壁の灯りを一つだけ残してあとを消していて、影は寝台の下に一つだけ落ちている。
戸口の脇の丸椅子に、祖父が座っていた。
寝台の反対側には、局長が立っていた。薄い革の手袋を、手首から裏返すように外している。両方とも外して、上着のポケットに入れた。素手の両手を、胸の前で軽く合わせる。それきり、動かなかった。
胸に冷たい丸いものがいくつも貼られて、そこから伸びた線が枕もとの機械につながり、機械の小さなスピーカーから音が流れている。
ざあ、と寄せて、引く音。
「お前の拍だ。音に直してある」
寝台の脇にはクロが座っていた。この部屋に、白い線は引いていない。
一つ目の波が寄せて、引いた。少し遅れて、二つ目の波が寄せて、引いた。
ミナコの耳が拾った音が、榊の聴診器が二つとも、と言った音が、今は部屋じゅうで海の音になって鳴っている。
帰ってきたら、と思った。
帰ってきたら、返そう。四百何十回も、来るたびに返さなかった一行を。こんばんは、と。
それからニルにアイスを買う。利子ごと。利子をいくらにするかは、ニルが決める。
予定を一つ足すたびに、寝台の板が背中の下で少しずつ硬くなった。帰ってくるのが自分でなくても、予定は残しておける。
「誰かに、言っておくことはあるか。俺が預かる」
榊が機械の目盛りを見たまま聞いた。
ミラは首を回して、戸口の祖父を見た。湯呑みを置いて、膝に戻る手。その手が、今は膝の上で握られている。
唇を開いた。最初の一文字が、出てこなかった。
「……帰ってから、自分で言います」
祖父の顎が、一度だけ下がった。
「……待っとる」
局長の目は、ミラの顔ではなく、胸の上の丸いものと、寝台の下の影を交互に見ていた。
「二日目は、目を覚ますだけだ。それまで、寝てろ」
榊の声は、診察のときと同じ平らさだった。
「数えろ。俺の声に合わせて」
「……いち」
「に」
「さん」
榊の手が、機械のつまみをほんの少し回した。二つ目の波が、一つ目の背中のすぐうしろまで近づいてくる。
寝台の下の影が、ゆっくりミラの体の方へ寄ってきた。床から、寝台の脚を伝って、背中の下へ。扉が細くなっていく、と誰かが言った気がした。
局長の合わせた両手が、ほんの少し前へ出た。
足もとで、クロが細く鳴いた。
手の中の鉛筆を、握りしめた。角が、手のひらに食いこむ。痛いと分かるうちは、まだ、自分の手だった。
唇が、や、の形に開きかけた。開きかけたまま、ミラは次の数を待った。
「よん」
波が、重なった。
ざあ、と一つの音で寄せた。
引く音が、来ない。
寄せたままの波が天井まで満ちて、そこで止まる。機械の灯りが止まる。榊の口が、声の形のまま止まる。局長の両手が、合わせた形のまま止まる。クロの尻尾が、宙で止まる。
全部が、止まった。
音のない中で、手の中の鉛筆の角だけがまだ痛かった。
止まったものの中で一つだけ、遠ざかっていくものがあった。
ミラはそれを呼ぼうとした。喉の奥まで、冷たいものが満ちていた。名前が、出てこなかった。
天井に、木目があった。
板の天井。節が三つ。木目が、川の流れのように右から左へ寄せている。
ひい、ふう、みい。
数えていた。木目の筋を、端から。
よう、いつ、むう、なな。
口の中で数えると、落ち着く。眠れない晩は岸につないだ舟の底に寝転がって、底板の木目を舳先の方から艫の方へ、こうして数えた。
手を、顔の前に上げた。
小さな手だった。指が細くて白く、手のひらにたこが一つもない。櫂を一度も握ったことのない手。
知らない手だった。
右手の中に、何かを握っていた。開くと、短い鉛筆が一本。手のひらに角の跡が赤く残っていて、この手がずっと握りしめていたらしい。
上がってくる途中の暗い水の中で誰かとすれ違って、その人の冷たい指がこちらの指にかすかに触れてから離れていった気がした。
いつか、上から落ちてきた女の子と、目が合ったことがある。あの目と、今すれ違った。
頬に落ちた髪を一筋つまんで、目の前に持ってきた。銀色で、根もとだけが黒い。鮎の腹みたいな色。
こんな色の髪は、見たことがない。
体を起こそうとして、どこもかしこも軽すぎることに驚いた。肩が薄い。腕が細い。胸の真ん中に、縦に一本、引きつれた線がある。その下で、心臓が鳴っていた。
一つ。
少しして、もう一つ。
一つ目の音を、よく知っていた。長いあいだ、それだけで鳴っていた音。二つ目は、知らない音だった。眠っている人の、ゆっくりした音。
腹が鳴った。
こんなときにも鳴る腹だけは、前のと同じだ。
「……ここ、どこ」
声に出してみると、自分の声ではなかった。細くて少し高い。
枕もとに赤い目の黒い猫が座って、こちらをじっと見ていた。
怖くはなかった。黒い水の中で、何度も見た色の目だった。
灰色の髪の後ろが一房だけ上を向いた痩せた男が、枕もとにしゃがんで、目をまっすぐに見てきた。浅瀬の底を読むときの目だった。
「名前」
それだけ聞いた。
答えは、迷わなかった。
「レイ」
男は何も言わなかった。煙草を口から外して膝の上で握り、それから静かに言い直した。
「……ミラ」
返事をしなかった。
誰のことなのか、レイには分からなかった。
寝台の反対側から、白髪の男が身をかがめた。
「失礼します」
手袋のない手のひらが、胸の縦の線の上に置かれた。冷たくも温かくもない手だった。男の目が、レイの顔ではなく、もっと奥の、水の底を見ているように細くなった。
長い時間ではなかった。
男は手を離して、上着のポケットから手袋を出した。手首まで、引き上げていく。
「二核入れ替えの成功例、見るのは初めてなもので」
誰に言ったのでもない声だった。それから、痩せた男と、戸口に座った老人の方を向いた。
「何もいたしません。報告書は、私が書きます」
戸口の老人は、こちらを見なかった。膝の上で握った手の甲だけが、白くなっていた。
暗い水の中を、何かが流れていった。
上の方から、柱時計の音が一つ降ってきた。誰かが遠いところで、同じ名前を二度呼んだ。
呼ばれた方は、目を開けなかった。




