第38章 成功か
水を見に行かなきゃ。
夜明け前に目が覚めて、レイは最初にそう思った。毎朝そうしてきた。まだ暗いうちに岸へ下りて、川の水の色と匂いと流れの速さを見て、その日の舟をどこまで出すかを決める。
部屋を出ると廊下の壁はつるつるして冷たく、突き当たりの鉄の階段の上から潮の匂いが降りてくる。
壁際に並んだ灯りの消えた機械は、何に使うものか一つも分からない。この身体のどこかが知っている気がして立ち止まったが、何も出てこなかった。
手すりを持って上ると、足は思ったとおりに動いた。知らない足が言うことを聞くのが妙で、レイは段の途中でその足をしばらく見下ろした。
鉄の扉を押すと、空が白みはじめていた。
海があった。
広い。向こう岸がない。風がなくて、水が少しも動かず、空の色をそのまま映している。
レイの知っている水は川だった。いつも流れていて、雨のあとは茶色く濁って、上へ漕げば漕ぐだけ舟を押し返してくる水。それから、黒い水を知っていた。底のない、流れているのかどうかも分からない、長い長い水。
この水は、どちらとも違う。舟を出すなら、どこへ櫂を入れればいいのか見当もつかない。
岩の上にしゃがんで、水に手を入れた。冷たかった。冷たいと分かることが、嬉しかった。
足もとに来た黒い猫は、小さいのに輪郭がやけにくっきりしていて、レイの膝に頭を押しつけた。
「あんた、誰の猫」
猫は答えない。両手で抱き上げると、思っていたよりずっと重かった。網いっぱいの鰯みたいに、何かがぎっしり詰まっている重さ。
「重いね」
猫は腕の中で喉を鳴らした。
うしろで、扉が鳴った。
昨日の男が、上着を肩に引っかけて出てきた。くわえた煙草に、火はついていない。
男は腕の中の猫を見て、足を止めた。
「……抱くのか、それを」
「だめ?」
「いや」
男は岩に腰を下ろして、レイと並んで海を見た。横顔の目が海の上を端から端まで見ていく。一度見たものを、見なかったことにしない目だ。浅瀬を一度読んだら、次の朝も同じ浅瀬を読み直す船頭の目に似ている。
「榊だ。医者だ。その身体の、主治医みたいなものだ」
榊は自分の腰を拳で叩いた。
「あのあと、また眠っただろう。奥の宿直の部屋まで運んだ。軽いと思ったが、そうでもなかった」
その身体、と男は言った。
レイは自分の手を見た。夜明けの光の中で、指のどこにも、あの白は残っていなかった。それなのに、手の方が昨日までのことを知っている。この手は少し前まで、手首の近くまで白かった。
「この身体の子は、今は海にいる」
榊は海を見たまま言った。
黒い水のことだと、すぐに分かった。ついこのあいだまで自分が浸かっていた、何に触っても何も当たらないあの水の中を、今はこの手の持ち主が流れている。猫を抱いた腕に力が入って、猫がもぞりと身じろいだ。
「……そう。じゃあ、これは、借り物だ」
榊が煙草を口から外した。何か言いかけて、やめた。
「あたし、どれくらい、あそこにいたの」
「知らん。お前の方が、知ってるだろう」
覚えているのは、川の匂いと、舟の底板の木目と、町の灯りだった。祭りの晩、その町の灯りが川面にいくつも揺れていたところで灯籠が一つ傾いたあたりで、足もとの影が急に深くなり、舟ごと水ではないところへ落ちた。
そこから先は、数えていない。数えるものが、何もなかった。
「長かった」
それだけ言った。
「外では、その子として過ごせ。髪や顔が変わっても、聞かれたら、影の因子が身体に入りこんでいる、と言え。半分は、本当だ」
「残りの半分は」
「言うな」
「嘘は、嫌い」
榊は鼻から短く息を吐いた。
「知ってる。顔に書いてある」
借り物の顔に書いてあるものを、この男は読むらしい。レイは、は、と短く笑った。
朝飯は、干し芋だった。島の宿のおかみさんが袋ごと持たせてくれたものだと、榊が言った。
一枚かじって、レイは目を見開いた。甘い。二枚目を取った。三枚目を取った。
「それ、三日分だぞ」
「おいしいものは、今食べる」
ひい、ふう、みい、と袋の中を数えた。榊が、横で顔を上げた。
四枚目を取ろうとして、指が止まった。この身体の子なら、残りを数えて袋の口を折る。そういう手つきが、指の中に残っていた。
レイは袋の口を折った。折り目が、角できちんとそろう。自分の手なら、こうはならない。
階段の上から、足音が下りてきた。ゆっくりで、片方の足を少しかばっている。
戸口に、老人が立っていた。ゆうべ、あの小部屋の戸口に座っていた人。作務衣の上に、紺の雨合羽を羽織っている。裾が、まだ夜露で濡れていた。一晩じゅう、塔の上で海を見ていたのかもしれない。
渋い茶の匂いがした。
その匂いを嗅いだとたん、舌の付け根がきゅっと縮んだ。飲んだ覚えのない茶の味だった。
「……おじいちゃん」
自分の口から出た言葉だった。レイは、その言葉を知らない。口が、知っていた。
老人の目が、レイの足もとに落ちた。顔までは、上がってこなかった。
「あの」
レイは言った。
「あたし、この子の」
「……部屋を、間違えた」
老人は向きを変えて、階段の方へ戻っていった。足音が、一段ずつ上っていく。
間違えた人の足音じゃない。分かっていて、間違えたと言った。嘘は嫌いだ。嫌いなのに、この嘘に投げ返す言葉が、腹のどこを探しても出てこない。
榊が立ち上がって、あとを追った。
扉の向こうの踊り場で、声が二つした。
「……あれは、あの子か」
「身体は、な」
間があった。
「……そうか」
それきり、どちらも何も言わなかった。階段の上で、鉄の扉が開いて閉まる音がした。
戻ってきた榊は、レイの方を見ずに言った。
「顔を見たら、数え終わってしまうんだろう。あの人は」
レイは、膝の上の猫を撫でた。猫は目を細めた。
この身体の子は、あの人に、何と呼ばれていたのだろう。思い出そうとすると、舌の付け根が、また渋くなった。
風鈴の音は、しなかった。




