第39章 禁止領域
ルーフは腕時計を見た。三分進めてある時計だった。
対象が湛島へ渡って、三日目の朝。島で処置が行われる、数日前だった。監視部門の主任が紙を読み上げている。
「鈴杣の実働班、十一名のうち、帰還は一名です。影を縫われていた者で、夜明けまで動けなかったと。報告の中身は、一行だけです」
「読め」
「対象が倒れて、止まった」
ルーフは端末に目を落とさなかった。十人ぶんの数字は、鈴杣の夜に消えた。光を増やせば縮む、と組んだ手順だった。縮まなかった。
「現在地は」
「祖父と二人で、船で湛島へ。古い観測所のある島です」
「島には、人を入れるな。釣り人を二人置け。見るだけだ」
ルーフは、廊下の突き当たりの部屋へ行った。
局長は、今朝も小さな画面を見ていた。
「鈴杣は、失敗です。私の読み違いです」
「ええ」
局長は画面を消した。手袋の手首を、片方ずつ引き上げる。
「島へは、私が参ります」
ルーフは、端末を胸に当てたまま動けなかった。局長が自分で建物を出るのを、見たことがなかった。
「場所は、ご存じで」
「三年前から」
局長は立ち上がった。
「数字のない紙も、たまには読みなさい」
廊下の窓際に、背の高い男が立っていた。足もとに、黒い獣。
「待機は、解く。次の時刻は、私が決める」
「次の時刻は、あなたが決める。承知しました」
「外へ、撃つな」
祖父は、階段の上の踊り場から下りてこなかった。
榊の前で、レイは観測所の床に胡座をかいていた。灯りは一つ。影も、一つ。
「お前の中には、因子が二つある。影と、つまようじだ」
「つまようじ」
「笑うな。それで、柱に穴があく」
レイは笑っていなかった。つまようじ、という物の形を頭の中で探していると、細くて先の尖った木の棒が出てきた。
「二つを、外へ出さずに、内側で回せ。混ぜずに、並べて」
目を閉じた。胸の奥に、流れが二つある。一つは冷たくて重くて、底の方を這っている。もう一つは細くてまっすぐで、先が尖っている。
川だ。
二本の川が合わさるところ。ぶつかって渦を巻いて、それでも混ざらずに並んで流れる。舟を出すとき、いちばん気をつけた場所だった。
膝の上で、指が櫂を漕ぐ形に動いた。右の流れを少し押し、左の流れを少し引く。二つが、胸の中を一周した。
「……回ってる」
榊の声が、近くで聞こえた。
近すぎた。
声のうしろで蛍光灯がちりちりと鳴り、壁の向こうで水が管を流れ、もっと向こうで波が岩を舐めている。
『……対象、地下から出ない。猫も、見えない……』
港の方の、雑音まじりの平たい声。
レイは目を開けて、耳を両手で押さえた。
「止めろ。回すのをやめろ」
止めた。音が遠くへ引いていって、蛍光灯の音だけが残った。
「……港に、二人いるね。釣り竿じゃないもの、持ってる」
「その子を捕まえに来た連中だ」
「同じことでしょ。今は」
昼に、榊がプリンを二つ出した。
蓋のつまみを引けばいいと指は知っていたのに、それを信じるまでに一拍かかった。
つまんで引いた。蓋が、途中でちぎれた。もう一度引いた。また、ちぎれた。
カップを口に当てて、蓋ごと噛み破ろうとした。
「待て」
榊がカップを取り上げ、残った蓋を一息で剥がした。
「中身が見えないものは、嫌い」
蓋の上の赤いシールが、目に入った。
頭のどこかで、数字が並んだ。四千九百八十。送料。手数料。足して、引いて、一円ずれた。
この身体の子が、縁側で何度も足し直していた。値段の計算を間違えたことのない子が、二度、三度と。
あの日、数えていたのは、この子だけではなかった。ひい、ふう、と数える癖がもう一つどこかで混ざって、一円ぶんずらしていた。
舟の帳面で、よその網の魚を自分の数に足したことは一度もない。それを、この子の勘定の中で、知らないうちにやっていた。
「……ごめん」
榊は自分のプリンの蓋を、黙って剥がした。
食べ終えてから、鞄の中の角の擦れたノートを開いた。赤いシールがページいっぱいに並び、どの横にも日付と店の名前が、止めとはねのそろった細い字で書いてある。
その次のページに、二文字だけ。
ミラ。
払いの先まで、芯が紙から離れていない字。
自分の字は、もっと崩れている。この子の字の隣に並べていい字じゃない。
ページの角が、小さく折ってあった。レイは、その折り目をもう一度しっかり折り直した。
次の日、榊はレイを島の西の端の崖へ連れていった。
「影を、回してみろ。地下より日が強い」
崖の縁から三歩のところに立った。髪が揺れないので、根もとの黒が目の端にずっと見えている。昨日より、指一本ぶん伸びていた。
足もとの影に、櫂を入れるつもりで、ゆっくり押した。
影がレイの形のまま、時計の針のように足もとを一周して、元の場所に戻ってきた。
「回った」
もう一周。今度は、速く。
影が地面の上で渦になって、その渦の底から、何かが上がってきた。
腹が、減った。
それから、眠くなった。まぶたが上から押されて重い。草の上に横になりたい。崖の、すぐそこで。
足もとで、クロが牙を見せて大きくあくびをした。
クロの眠気だった。クロの空腹だった。回した影の底から、流れこんできていた。
レイの膝が、崖の方へ折れた。
襟首を、うしろからつかまれた。榊がレイの体を崖から引き剥がすように、草の上へ転がした。
「止めろ」
渦がほどけた。眠気が、潮が引くように遠くなる。腹の底だけが、まだ空っぽだった。
「……今の、あの猫の」
「ああ」
榊はレイの横に座りこんで、肩で息をしていた。
眠くなったら、流される。黒い水の中で、それだけは知っていた。
「二つ以上の因子を、一人の身体に入れる実験が、昔あった」
榊が、海の方を見たまま言った。
「何十人も、入れた。ほとんどが死んだ。観測所の戸棚で、その記録を読んだ」
レイが起き上がると、草が髪から落ちた。
「ほとんど、ね。じゃあ、この子は、ほとんどの方に入らなかったんだ」
榊の口が、少し開いて閉じた。船を降りたときに自分で言った言葉だと、思い当たった顔だった。
「……聞いてたのか」
「聞いてない。でも、覚えてる」
この身体の耳が、だった。
「崖の上で回すのは、今日で終わりだ。ここから先は、禁止だ」
「ダメ、ってこと」
「ダメだ」
「いいよ」
あっさり言ってから、崖の縁を見た。あと一歩だった。
「……助かった」
榊は聞こえないふりをして、襟首をつかんだ右手を、膝の上で握ったり開いたりしていた。
「手、痛い?」
「年だ」
帰り道で雨が降りだした。凪の島の、初めての雨。
崖の下り口の漁師の小屋に駆けこむと、積んだ浮きの奥で網を繕っていたおじいさんが顔を上げた。
「先生か。濡れたな」
何も聞かずに、欠けた湯呑みに番茶を二つ注いで、隅のテレビの音をひと目盛りだけ上げた。
画面で、白黒の猫と小柄な女の人が、同じ向きに体をひねって跳んでいた。
『交流戦、春の大会。注目の選手です。昨年の個人総合一位、ハズキ選手は——』
レイの頭のどこかで、名前が浮いた。駅前の大きな画面。ニルの部屋の小さなテレビ。この目が、二度見た人だった。
ここまで行く、と言っていた子がいる。名前は出てこない。橙色の、長すぎる袖だけが浮かぶ。客席で見てろ、いちばん前な、と。
「……あたしが、そこに座ってもいいのかな」
榊は、くわえた煙草を上下させた。
番茶をすすった。渋かった。舌の付け根が、きゅっと縮んだ。階段を上っていった、あの人の匂いの味だった。
雨の音が、小屋の屋根を叩いていた。




