第40章 潜行
「下りたい。あの子のいるとこ」
雨の上がった夜の観測所で、レイは言った。
崖の上で膝が折れたのは、昼のことだ。榊は煙草を口から外して、床の影と、レイの顔を見比べた。
「ダメだと言ったら」
「一人で下りる。崖じゃなくて、ここから」
借りた身体で言うことじゃない。分かっていて、言った。あの子は今、あの水のどこかにいる。それを上で待っている方が、レイには水より冷たかった。
榊はしばらく黙ってから、壁の綱を取った。
「……下りるぞ。一人では、下ろさん」
丸椅子の上で、祖父が綱の端を見ていた。
灯りは一つだけ残してあって、部屋の真ん中の床に、レイの影が一本まっすぐ伸びている。
「ここは、影の向こうを見るために造られた。見るだけなら、ロムスの目でできた。お前は、目じゃない。体ごと行ける」
「なんで分かるの」
「その子の二つ目の心臓が、向こうとつながってる。資料に、そう書いてあった」
紙の端から外へ出ていく線と、その先の『海』の一文字。この身体の子が、指でなぞらなかった字だった。
榊は壁の機械の前に立って、綱の端を握っていた。もう一方の端は、レイの腰に結んである。雨宿りの小屋で、おじいさんに分けてもらった綱だった。
「引いたら、戻れ。戻れなかったら、俺が引く」
「分かった」
「それから」
榊は綱を手のひらに一巻きした。
「向こうで、誰に呼ばれても、返事をするな」
レイはうなずいて、影の上に立った。
長いあいだいた場所だった。そこへ、今度は自分の足で戻る。帰ってこられる綱がついているのに、足の指は、川岸で深みをのぞいたときと同じ形に縮んでいた。
足もとの黒が、靴の下で水のように揺れた。
クロが影の縁に座っていた。赤い目で、レイを見上げている。
「行くよ」
一歩、踏み出した。
落ちた。
床がない。体ごと、黒い水の中へ沈んだ。
冷たい。
骨の芯まで凍るような冷たさだった。息を吸おうとして、口に水が入る。水なのに、味がしない。
上も下もなくなった水の中を体はどんどん沈んでいって、腰の綱がぴんと張っても、沈む方がまだ強い。
冷たさが、胸まで来た。
二つの心臓のうち、一つが、ゆっくりになっていく。
知っている、と思った。
この冷たさを、知っていた。長い長いあいだ、この中にいた。目を閉じれば、また、あそこへ戻れる。何も変わらない、何も待たなくていい、腹も減らない、あの水の中へ。
袖を、何かがくわえた。
赤い目の、黒い大きなものだった。猫の形をしているのに猫の何十倍もあって、それがレイの袖を牙でくわえ、上へ引いていた。
クロだった。
上の方から、声が降ってきた。
「沈むな」
榊の声だった。
「通れ」
通れ。
レイはもがくのをやめた。
舟から落ちたとき、父に言われたことがあった。水に逆らうな。水の中を、行け。
体の力を抜いた。水を押すのではなく、水と水のあいだを抜けるつもりで、腕を一つ掻いた。
冷たさが消えた。温かくもない。何も感じなくなって、水の中にいるのに水がなかった。
沈むのが、止まった。
クロが袖を放した。
レイは黒い水の中にまっすぐ立っていた。
見上げると、天井があった。
灯台の跡の細長い影と、観測所の入り口の四角い影と、崖のぎざぎざの影が、島の形のまま、黒い水の天井に逆さまに貼りついている。
その向こうから、音が降ってきた。波の音。どこかの家のテレビ。榊が綱を握り直す音。
陸の音は、みんな、上から聞こえた。
黒い水は黒いのに透けていて、光がないのに遠くまで見える。夜の川に潜って、水の中から月を見上げたときの暗さだった。
人が、流れていた。
眠っているような格好で、横になって、ゆっくり。
古い着物を着た男。髪を高く結った女。火の消えた紙の灯籠を胸に抱えたまま眠っている老人。見たことのない形の鎧を着て、目を閉じている人。どの人も少しも動かず、ただ流れていく。
レイはその人たちを知らなかった。けれどその流れ方を知っていた。
自分も、ずっと、ああして流れていた。いつからか分からないくらい長く、灯籠の老人のように何かを抱えたまま、抱えていることも忘れて。
それから少女が一人、流れてきた。
膝まである灰色のカーディガンを着た細い体で、袖口を手首で一度折り返している。
肩につくくらいの銀色の髪。右のこめかみの上だけ、根もとが黒い。
目を、閉じていた。
レイは手を伸ばした。
届かなかった。少女は、レイの指先からほんの少し離れたところを、同じ速さで流れていく。
伏せがちのまぶた。小さな顎。
いつか、上から落ちてきた子だった。暗い水の中で、目が合った。あのときこのまぶたは開いていて、レイと同じくらい驚いていた。
上がってくる途中で、指が触れた。あの冷たさも、この子だった。
喉の奥で、何かがつかえた。つかえたものを押し出そうとして、口を開いた。
「……ミラ」
名前は、一拍遅れて出てきた。
少女は、目を開けなかった。
もう一度手を伸ばしかけて、レイは自分の手を見た。この子の手だった。この白くて細い指で持ち主の袖をつかもうとしているのだと思ったとたん、指は水の中で丸まったまま、それ以上どこへも伸びていかなかった。
遠くに、陸地があった。
黒い水の上に、島のように黒い岩と砂が浮いていて、色の抜けた草が少しだけ生えている。
その岩の一つに、誰かが座っていた。
岩は、背もたれのある椅子の形をしていた。長い髪の女が、背筋を伸ばして座り、両手を膝の上にそろえている。
女が、振り向いた。
遠くて顔は見えないのに、こちらを向いたことだけは分かった。
声がした。
遠いのに、耳のすぐそばで聞こえる。名前を呼ぶ声だった。誰の名前なのかは、聞きとれなかった。
返事をするな、と榊は言った。
呼ばれたのが自分の名なら、答えれば帰れなくなる。この子の名なら、答えるのは、この子の口の役目だ。どっちにしても、この口が開く番じゃない。
レイは唇を噛んだ。顎の付け根がきしむほど噛んでも、血の味はしなかった。
腰の綱が、強く引かれた。
体が、黒い水の中を上へ、上へと引き上げられていく。流れていく少女の背中が、小さくなっていった。椅子の女は、まだこちらを向いていた。
観測所の床に、レイは四つん這いで戻っていた。
服は、どこも濡れていなかった。
榊は綱を握ったまま床に座りこんでいて、その手のひらに綱の跡が赤く残っている。
「……見たか」
レイはうなずいた。
「流れてた。あの子」
榊は綱を手から外した。指が、なかなか開かなかった。
祖父が丸椅子から立って、綱を壁の釘に掛けた。レイの方は見ないまま、階段を上っていった。
クロがレイの膝に頭を押しつけた。赤い目が、まだ少しだけ濃い。
「あんた、重いだけじゃなかったんだ」
クロは返事のかわりに、膝の上で丸くなった。
レイは自分の指先を見た。何も触れていない指先が、冷たかった。




