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名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第3章 凪の島

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第41章 海の色

缶の口に、爪をかける場所がなかった。


レイは番茶の缶を岩の上で回した。どこを押しても、鉄の蓋は開かない。隣で榊が、自分の缶を開けずに手の中で転がしていた。


港の前の四角い箱から出てきた缶だった。銭を入れて釦を押せば、必ず何かが落ちてくる。腹の減った舟乗りにも嘘をつかない箱。その話を三度したところで、榊から缶を一本渡されたのだった。


灯台の跡の下の岩場は、今日も凪いでいる。


「島の朝の続きだ」


何の続きか、聞かなくても分かった。この島で目を開けた朝に、海の前の岩の上で、これは借り物だと言った。榊は煙草を口から外して、何か言いかけて、やめた。その残りを、今ごろ持ってきた。


「替わるには、二人とも、うんと言わなきゃならん。お前と、あの子と。片方だけじゃ、扉は開かない」


「あの子が、寝てたら」


「開かない」


「起こせば」


缶を転がす手が止まった。


「……あそこで目を開けた者を、俺は、まだ一人も知らない」


それから榊は、顎でレイの足もとを指した。クロが岩の割れ目をのぞいて、尻尾の先だけを揺らしている。


「それと、扉の番はそいつだ。そいつの腹が満ちてるときでないと、開かん。腹の減った猫は、通るものを食う」


「猫の機嫌しだい、ってこと」


「そういうことだ」


崖の上で流れこんできた底の抜けた空腹を思い出すと、胃の奥が、あの日の形にへこんだ。あれが、扉の番。


割れ目から、親指ほどの蟹が一匹、横歩きで出てきた。


クロは動かなかった。岩の上の影の縁だけが潮のように音もなく伸びて、蟹の甲羅から上を呑んだ。外に残った脚が、岩をかりかりと掻いている。泡を吹く音が、影の中からくぐもって聞こえた。


クロは目を細めたまま、黒い体を一口ごとにぎゅっと縮めて、戻した。三度で、影は蟹を放した。蟹は割れ目へ帰らずに、日なたでじっとしていた。その下の影だけが、薄い。


レイの指は、少しも冷えなかった。


榊が巻尺を出して、クロの影を端から端まで測った。


「三・八。ゆうべより縮んだ。お前が怖がらんから、線の伸びが止まった。……そのかわり、腹が減る。影が縮めば、食える獲物も小さくなる。満ちきらん。……宿の坊主を、そいつに近づけるな」


それから、海の方を見たまま言い足した。


「じいさんは、朝の船で先に出た。局の車を後ろに連れて、陸を歩くそうだ」


「……あたしの顔、見ないで行ったんだ」


榊は答えなかった。


爪の先が、缶の縁の小さな出っぱりに引っかかった。押すと、ぷしゅ、と鳴った。


「じゃあ、あの子が最初になればいい」


言ってから、缶を下ろした。


「待って。あたしは、うんって言った覚え、ない」


榊は上着の内ポケットから手帳を出した。片仮名で二文字、レイ、と写した頁を開いて見せた。


「あの子は、やりますと言った。やりますと言ったあと、名前を打ったのは、お前の指だ」


「……それが、うん?」


「俺には、そう見えた」


番茶が、喉の途中で止まった。ぬるいはずの茶が、そこだけ重い。


眠っているあいだにもやいが解けて、誰も綱をほどいていないのに、朝には沖まで流れ出ている舟というものが、川にはときどきある。乗っている者に覚えがなくても、舟はもう岸を離れている。


嘘は嫌いだった。知らないうちにうんと言っていたのなら、嘘より始末が悪い。


それなのに胸のどこかで、上がってこられてよかったと思っている自分がいた。干し芋が甘くて、雨が冷たい場所へ。レイは缶を傾けて、その声ごと茶を流しこんだ。


「替わって上がってきた者は、知ってる。お前だ。向こうで目を開けて、自分から戻った者を、知らない」


「岩の椅子に、女の人がいた。あれは」


「向こうの陸地で、待ってる者だ。誰を待ってるのかは、知らん」


榊は、自分の缶をようやく開けた。爪をかけずに、指一本で。




その夜も、下りた。


腰の綱は、もう沈むためのものではない。帰り道の目印だ。


足もとの黒に入ると、冷たさが来る前に腕を一度掻いた。冷たさは来なかった。昨日の体が覚えたことを、今日の体も覚えていた。


眠ったまま流れていく人たちのあいだを、すり抜けていく。昨日すれ違った鎧の人が、同じ格好のまま少しだけ先にいた。


流れは遅かった。遅いのに、止まらない。祭りの晩の川と同じで、灯籠も人も、同じ速さで海の方へ運ばれていく。


遠くの陸地の岩は、今夜は背中を向けていた。


少女は、昨日より遠くにいた。


三度、四度と水を掻くと、指が灰色の袖口に触れた。つかんだ。黒い水の中なのに、乾いた毛糸の手触りがした。


引き寄せると、少女の体がゆっくり寄ってきた。思っていたより、ずっと幼い顔だった。


手を取ると、冷たかった。


「ミラ」


今度は、遅れずに出た。


少女は目を開けない。


「ミラ。起きて」


強く握っても、指は少しも握り返してこない。舟を引いた綱が、途中で切れていたときの、あの手ごたえのなさだった。


胸に耳を当てた。


とくん、と一つ。


一つだけだった。もう一つの音はここにない。陸の上の、あの身体の中で鳴っている。




上で、綱が二度引かれた。帰れ、の合図。


レイは手を放さなかった。


抱えて泳げば天井の影まで届く。あの身体まで連れていって押しこんでしまえば、それで済む話のように思えた。


片方だけでは、扉は開かない。


この子は今、うんとも、いやとも言えない。言えない者の舟を黙って曳いていくのは、人の舟を盗むのと変わらない。


少女の手をそっと胸の上に戻して、眠る人に布団を掛け直すように、両手を重ねて置いた。


綱が、また引かれた。


「……ちょっと、待って」


銀の髪が、黒い水の中でゆっくり広がっていく。そこだけが、薄く光っていた。


海の色だ、と思った。川で育った娘が、黒い水の底で初めて見た色。この子の色。




「あんたの身体、借りてる」


レイは言った。


「借りたものは、返す。あたしは、そうやって生きてきた。舟も、櫂も、網も、隣の家の味噌も。返せなかったものは、一つもない」


少女は眠っていた。


「だから、返す。必ず連れ戻して、返す」


言ってしまうと、胸の中で何かが一つ、杭を打つように決まった。


カーディガンのポケットに手を入れた。指でつまめなくなるほど短い鉛筆が一本、削り跡を几帳面にそろえて入っていた。目を覚ましたとき、手の中に握っていたものだった。


重ねた手の中に、差しこんだ。


「これ、あんたが握ってた。返す」


指は閉じなかった。鉛筆は手のひらの上に横になって載ったまま、黒い水の中で少しも流されなかった。


少女の唇が、ほんの少し動いた気がした。顔を近づけてみても、動いていない。


綱が、三度引かれた。


水を掻いた。少女の背中が、ゆっくり離れていく。振り向かなかった。振り向いたら、また手を伸ばす。伸ばしたら、今度は放せない。




観測所の床に戻ると、榊が綱を巻き取りながら言った。


「遅い」


「ごめん」


「謝るな。……何か、言ってたな。下で」


「聞こえたの」


「声は聞こえない。口が動いてた」


床に座ったまま、自分の手を見た。細くて骨の浮いた、借りた手。ポケットが、鉛筆一本ぶん軽かった。


「返すって、言った」


綱を巻く手が、途中で止まった。


「いつ」


「分かんない。でも、返す」


榊は綱を輪にして机に置くと、煙草の箱を出し、一本も抜かずにポケットへ戻した。


「返すまで、その身体を壊すなよ」


「いいよ」


膝に乗ってきたクロの背を撫でた。毛の下で、腹が薄くへこんでいる。撫でても、喉は鳴らなかった。


「そうしよう」


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