第41章 海の色
缶の口に、爪をかける場所がなかった。
レイは番茶の缶を岩の上で回した。どこを押しても、鉄の蓋は開かない。隣で榊が、自分の缶を開けずに手の中で転がしていた。
港の前の四角い箱から出てきた缶だった。銭を入れて釦を押せば、必ず何かが落ちてくる。腹の減った舟乗りにも嘘をつかない箱。その話を三度したところで、榊から缶を一本渡されたのだった。
灯台の跡の下の岩場は、今日も凪いでいる。
「島の朝の続きだ」
何の続きか、聞かなくても分かった。この島で目を開けた朝に、海の前の岩の上で、これは借り物だと言った。榊は煙草を口から外して、何か言いかけて、やめた。その残りを、今ごろ持ってきた。
「替わるには、二人とも、うんと言わなきゃならん。お前と、あの子と。片方だけじゃ、扉は開かない」
「あの子が、寝てたら」
「開かない」
「起こせば」
缶を転がす手が止まった。
「……あそこで目を開けた者を、俺は、まだ一人も知らない」
それから榊は、顎でレイの足もとを指した。クロが岩の割れ目をのぞいて、尻尾の先だけを揺らしている。
「それと、扉の番はそいつだ。そいつの腹が満ちてるときでないと、開かん。腹の減った猫は、通るものを食う」
「猫の機嫌しだい、ってこと」
「そういうことだ」
崖の上で流れこんできた底の抜けた空腹を思い出すと、胃の奥が、あの日の形にへこんだ。あれが、扉の番。
割れ目から、親指ほどの蟹が一匹、横歩きで出てきた。
クロは動かなかった。岩の上の影の縁だけが潮のように音もなく伸びて、蟹の甲羅から上を呑んだ。外に残った脚が、岩をかりかりと掻いている。泡を吹く音が、影の中からくぐもって聞こえた。
クロは目を細めたまま、黒い体を一口ごとにぎゅっと縮めて、戻した。三度で、影は蟹を放した。蟹は割れ目へ帰らずに、日なたでじっとしていた。その下の影だけが、薄い。
レイの指は、少しも冷えなかった。
榊が巻尺を出して、クロの影を端から端まで測った。
「三・八。ゆうべより縮んだ。お前が怖がらんから、線の伸びが止まった。……そのかわり、腹が減る。影が縮めば、食える獲物も小さくなる。満ちきらん。……宿の坊主を、そいつに近づけるな」
それから、海の方を見たまま言い足した。
「じいさんは、朝の船で先に出た。局の車を後ろに連れて、陸を歩くそうだ」
「……あたしの顔、見ないで行ったんだ」
榊は答えなかった。
爪の先が、缶の縁の小さな出っぱりに引っかかった。押すと、ぷしゅ、と鳴った。
「じゃあ、あの子が最初になればいい」
言ってから、缶を下ろした。
「待って。あたしは、うんって言った覚え、ない」
榊は上着の内ポケットから手帳を出した。片仮名で二文字、レイ、と写した頁を開いて見せた。
「あの子は、やりますと言った。やりますと言ったあと、名前を打ったのは、お前の指だ」
「……それが、うん?」
「俺には、そう見えた」
番茶が、喉の途中で止まった。ぬるいはずの茶が、そこだけ重い。
眠っているあいだにもやいが解けて、誰も綱をほどいていないのに、朝には沖まで流れ出ている舟というものが、川にはときどきある。乗っている者に覚えがなくても、舟はもう岸を離れている。
嘘は嫌いだった。知らないうちにうんと言っていたのなら、嘘より始末が悪い。
それなのに胸のどこかで、上がってこられてよかったと思っている自分がいた。干し芋が甘くて、雨が冷たい場所へ。レイは缶を傾けて、その声ごと茶を流しこんだ。
「替わって上がってきた者は、知ってる。お前だ。向こうで目を開けて、自分から戻った者を、知らない」
「岩の椅子に、女の人がいた。あれは」
「向こうの陸地で、待ってる者だ。誰を待ってるのかは、知らん」
榊は、自分の缶をようやく開けた。爪をかけずに、指一本で。
その夜も、下りた。
腰の綱は、もう沈むためのものではない。帰り道の目印だ。
足もとの黒に入ると、冷たさが来る前に腕を一度掻いた。冷たさは来なかった。昨日の体が覚えたことを、今日の体も覚えていた。
眠ったまま流れていく人たちのあいだを、すり抜けていく。昨日すれ違った鎧の人が、同じ格好のまま少しだけ先にいた。
流れは遅かった。遅いのに、止まらない。祭りの晩の川と同じで、灯籠も人も、同じ速さで海の方へ運ばれていく。
遠くの陸地の岩は、今夜は背中を向けていた。
少女は、昨日より遠くにいた。
三度、四度と水を掻くと、指が灰色の袖口に触れた。つかんだ。黒い水の中なのに、乾いた毛糸の手触りがした。
引き寄せると、少女の体がゆっくり寄ってきた。思っていたより、ずっと幼い顔だった。
手を取ると、冷たかった。
「ミラ」
今度は、遅れずに出た。
少女は目を開けない。
「ミラ。起きて」
強く握っても、指は少しも握り返してこない。舟を引いた綱が、途中で切れていたときの、あの手ごたえのなさだった。
胸に耳を当てた。
とくん、と一つ。
一つだけだった。もう一つの音はここにない。陸の上の、あの身体の中で鳴っている。
上で、綱が二度引かれた。帰れ、の合図。
レイは手を放さなかった。
抱えて泳げば天井の影まで届く。あの身体まで連れていって押しこんでしまえば、それで済む話のように思えた。
片方だけでは、扉は開かない。
この子は今、うんとも、いやとも言えない。言えない者の舟を黙って曳いていくのは、人の舟を盗むのと変わらない。
少女の手をそっと胸の上に戻して、眠る人に布団を掛け直すように、両手を重ねて置いた。
綱が、また引かれた。
「……ちょっと、待って」
銀の髪が、黒い水の中でゆっくり広がっていく。そこだけが、薄く光っていた。
海の色だ、と思った。川で育った娘が、黒い水の底で初めて見た色。この子の色。
「あんたの身体、借りてる」
レイは言った。
「借りたものは、返す。あたしは、そうやって生きてきた。舟も、櫂も、網も、隣の家の味噌も。返せなかったものは、一つもない」
少女は眠っていた。
「だから、返す。必ず連れ戻して、返す」
言ってしまうと、胸の中で何かが一つ、杭を打つように決まった。
カーディガンのポケットに手を入れた。指でつまめなくなるほど短い鉛筆が一本、削り跡を几帳面にそろえて入っていた。目を覚ましたとき、手の中に握っていたものだった。
重ねた手の中に、差しこんだ。
「これ、あんたが握ってた。返す」
指は閉じなかった。鉛筆は手のひらの上に横になって載ったまま、黒い水の中で少しも流されなかった。
少女の唇が、ほんの少し動いた気がした。顔を近づけてみても、動いていない。
綱が、三度引かれた。
水を掻いた。少女の背中が、ゆっくり離れていく。振り向かなかった。振り向いたら、また手を伸ばす。伸ばしたら、今度は放せない。
観測所の床に戻ると、榊が綱を巻き取りながら言った。
「遅い」
「ごめん」
「謝るな。……何か、言ってたな。下で」
「聞こえたの」
「声は聞こえない。口が動いてた」
床に座ったまま、自分の手を見た。細くて骨の浮いた、借りた手。ポケットが、鉛筆一本ぶん軽かった。
「返すって、言った」
綱を巻く手が、途中で止まった。
「いつ」
「分かんない。でも、返す」
榊は綱を輪にして机に置くと、煙草の箱を出し、一本も抜かずにポケットへ戻した。
「返すまで、その身体を壊すなよ」
「いいよ」
膝に乗ってきたクロの背を撫でた。毛の下で、腹が薄くへこんでいる。撫でても、喉は鳴らなかった。
「そうしよう」




