第8章 消毒液
港で言えなかったことを、今日はニルに言う。
金曜の放課後、市民病院の自動ドアは、六日前と同じ音で開いた。三年前とも、たぶん同じ音だった。
ミラは今度は止まらなかった。止まりかけた膝を、うしろからコウタの手が軽く押した。肩には、家で詰め直してきた土の袋が掛かっている。
消毒液の匂いが、顔に当たった。
白い天井と四角い灯りと手首のゆるいベルトと、誰かの白い袖口の青いインクの染みだけがまぶたの裏をよぎって消え、いつ見たのかも誰の袖なのかも分からないまま、喉の奥がせり上がってきた。ミラは廊下の端のトイレに駆けこんだ。
吐いたのは、昼に食べたパンの半分だけだった。半分で済んだ、と数えている自分がいた。
口をゆすいで顔を上げると、鏡の中の自分は、思っていたより普通の顔をしていた。伏せがちの茶色の目に、閉じたままの口。何があっても、この顔は何も言わない。それが嫌で、もう一度冷たい水で顔を洗った。
トイレを出ると、コウタが紙コップの水を持って立っていた。
「確認です。飲めますか」
ミラはうなずいて受け取った。紙コップは、コウタの手の温度でぬるくなっていた。ずっと持って待っていたのだと、そのぬるさで分かった。
「病室は、ミラさんだけで。僕は廊下にいます」
コウタはそう言って、エレベーターの前の長椅子に、土の袋を膝に載せて座った。
ニルの病室は、因子外来の上の階の、相部屋の窓際だった。カーテンが片側だけ開いていて、ベッドの脇の丸椅子に、知らない男の人が座っていた。日に焼けた首にタオルを巻いている。ニルを縦にも横にも一回り大きくしたような体だった。
男の人はミラを見ると、何も言わずに立ち上がり、丸椅子を空けて廊下へ出ていった。すれ違いざまに、潮と魚の匂いがした。
「兄貴。一番上の」
ニルは天井を見たまま言った。右手は、白い包帯で手首まで巻かれていた。
「……来れたじゃん、病院」
「ニルがいたから」
言ってから、それが本当だと気づいた。ここにニルがいなければ、自動ドアの前でまた膝が床に縫いとめられていた。
ニルは包帯の手を持ち上げて、指先をこすり合わせようとした。指の形だけが動いて、何も鳴らない。
「火がさ。遠いんだよ」
天井に向かって、独り言みたいに言った。
「あるのは分かる。なくなってはない。でも、手を伸ばしても届かねえとこにある。……医者は、そのうち戻るかもって。かも、だって」
かも、の言い方だけが医者の口まねになっていた。笑わせようとしているのか、自分が笑いたいのか、ミラには分からなかった。
「あと、朝イチで局のやつが来たぞ。警察と一緒に。お前の名前は出してねえ。コウタが、火薬のやつの話だけ全部しゃべった」
名前は、出していない。
肩から力が抜けた。抜けた肩のまま、ミラはニルの包帯を見た。手首まで巻いてある。
ミラは丸椅子に座った。座って、膝の上で手を握った。言うことを決めてきたはずだった。廊下を歩くあいだに何度も頭の中で言い直して、どれも途中で、ニルの顔がこっちを向くところで止まった。
「……私が、呼んだから」
ニルが、やっとこっちを見た。
「ニルって、呼んだから。だから、ニルが」
「呼ばれなくても、走ってたよ。俺は」
即答だった。怒っているのでも、慰めているのでもない。レジで袋はいりますかと聞く店員と、同じくらいの声だった。
ミラは握った手をほどけなかった。
もう一つ、言わなければならないことがある。こっちの方が、ずっと重い。
「それと」
唾が、喉の途中で止まって降りていかない。
ニルは待たなかった。
「消したって、言ってたろ。港で」
ミラは息を吸ったまま、吐けなかった。
「一回、目、閉じたろ、俺。もう一回うっすら開けたら、お前、俺の手握って、下向いてた。耳、まだ詰まってたけど、口の形、見えた。消したの、って」
ニルは包帯の手を、布団の上に置いた。
「何を消したのか、今は聞かねえ。俺、今、火もねえし、頭も回んねえし、たぶんちゃんと聞けねえから」
それから、少し間を置いて言った。
「でも、あとで全部聞く。逃げんなよ」
ミラはうなずいた。
あとで、という言葉にすがりたくなった。今でなくていい。その猶予が、逃げ道に見えた。逃げんなよと言われたばかりなのに、うなずいた首のまま、もう逃げ道の方を見ている。涙は出なかった。出なかったことが、なんだか申し訳なかった。
「あと、アイスな」
「……アイス」
「治ったら、当たり出るまで付き合え。お前の金で」
「当たり、出たことないのに」
「だから付き合えっつってんの」
ニルは目を閉じた。口の端だけが、港で見たのと同じ形に、今度は最後まで上がった。
カーテンが揺れて、ニルの兄が戻ってきた。缶コーヒーを三本、腕に抱えている。ブラックと、微糖と、カフェオレ。三本とも、黙ってミラの膝に置いた。
「何飲むか、知らねえから」
ニルが、目を閉じたまま吹き出した。
港の近くの、雑居ビルの地下駐車場だった。
オッドは白い綿の手袋をはめたまま、白い車の前に立っていた。運転席に、男が一人座っている。背もたれに体を預け、両手を膝に置いて、目を開けたまま。
外傷はない、と先に来た班の人間は言った。死亡推定は、水曜の夕方。
車内灯が点いていた。男の顔にも、膝の上の手にも、光は当たっている。座席にもハンドルにも、影が落ちている。
男の体の下にだけ、影がなかった。
手袋の中で、指先が冷えていた。視るのは仕事だ。仕事でなければ、誰にも触りたくない。触れば、その人が最後に見たものが自分のものになってしまって、返す先はどこにもない。
オッドは右手の手袋を、指を一本ずつ引いて外した。
男の手首に、指先を当てた。
路地。自販機の、一つだけ光る売切の文字。こっちを見ている、銀色の髪の女の子。その子の目は、男の顔を見ていなかった。足もとを見ていた。黒い糸を巻いた、細いもの。
女の子の顔は、怖がっていた。見ている男の方と、同じくらいに。
視えるものは、そこで途切れていた。路地からこの運転席までの道のりが、どこにもない。
それより前。屋台の湯気。持ち手を二回ねじった袋。小さい子の声で、おじちゃん、と呼ぶ誰か。
オッドは手を離した。アルさん、と口の中で言った。手袋をはめ直すのに、ずいぶん時間がかかった。指が、手袋の指の穴を何度も間違えた。
報告書には、視たものを書く決まりだった。路地も、売切の光も、女の子の顔も。書けば、あの子は番号になる。
ポケットの中で、スマホが十時を知らせた。
水曜の夜は、アルさんからの定時の連絡が、十時を過ぎても来なかった。あの夜、オッドはいつもの一行を打てなかった。
画面を開く。半額ナイトは、今夜は配信していなかった。それでもオッドは、空のコメント欄に指を置いた。
『こんばんは』
送信の上で、白い手袋の親指が止まった。
しばらくそうしてから、オッドは一文字ずつ、それを消した。
上着の内ポケットで、報告書の路地の欄は、まだ白いままだった。




