第7章 火薬
倉庫の隙間のフードの男は、ニルから目を離さないまま、口の中で何かを足し算していた。
筒を握った手の甲に、縫い目の跡が何本も、線路みたいに並んでいる。片方の靴だけ、紐の代わりに白い結束バンドで締めてある。こんなときに、ミラの目はそういうところばかり拾った。
「四人。火が一。土が一。影は、あの銀色。火の手もとなら、筒は早く鳴る。……な? 火を先に寝かして、影はあとで拾う。一でいい」
最後の「な?」だけが、こちらに向けた声だった。誰かに同意を求めるような、軽い声。
男は筒を、指で弾いた。銀色のものがアスファルトの上を転がってきて、からからと乾いた音を立て、ニルの靴の先で止まった。
「伏せてください!」
コウタの声が、背中から飛んできた。
ニルは、考えるより先に人の前に出る。ずっと近くにいて、ミラはそれを知っていた。知っていたのに、声が出たのは、ニルがしゃがみかけたあとだった。
「ニル!」
自分の声とは思えないくらい、大きかった。喉の奥が裂けたみたいに痛んだ。
ニルは振り向かなかった。筒を素手でつかんで、海の方へ振りかぶった。
「こんなもん、沈め——」
かち、と筒が鳴った。
ニルの指先で、いつもの火花が鳴った。パチ。
光るだけのはずの火花が、光で終わらなかった。
白くなった。
音が、消えた。
目を開けると、ミラは岸壁にうつぶせていた。頬の下のコンクリートが、細かく震えている。口の中に砂が入っていて、噛むと奥歯できしんだ。
目の前に、壁があった。さっきまでなかった、土の壁。腰の高さほどで、表面に袋の網目の跡がそのまま残っている。
コウタが、破れて空になった土の袋を片手に握ったまま、壁の後ろに膝をついていた。肩に掛けていた袋だった。肩で息をしている。
「伏せろって言っただろ、伏せてろ!」
誰に向けたのか分からない怒鳴り声だった。それがコウタの声だと気づくまでに、一拍かかった。確認です、も、ですます、もない。袋を握ったままの指の関節が、白くなって震えていた。
耳鳴りの向こうで、何かが燃える音がしていた。
ミラは首だけ上げた。土の壁の向こうで、倉庫の壁に穴が開いていた。岸壁の角が、丸くえぐれている。焦げた鉄の匂いと火薬の匂いが、潮の匂いを押しのけていた。
ニルが、いなかった。
えぐれた縁の向こうは、黒い海だった。
沈まないで。
声にはならなかった。ミラは伏せたまま、体の下の影を縁の向こうへ向けた。どうすればいいのかは知らない。ただ、行って、と思った。影が一本だけ、そちらへ伸びていった。クレーンの灯りの向きとは、逆に。
伸びた先の黒は、地面より一段低く見えた。踏めば、くるぶしまで沈みそうな黒だった。
「海だ!」
ジャスティンの声がした。肩の猫は、一匹もいなかった。
岸壁の縁から下をのぞくと、黒い水の上に、ニルが仰向けに浮いていた。兄のお下がりの橙のパーカーが、水を吸って膨らんでいる。
ジャスティンは靴も脱がずに飛びこむと、長い腕でニルの襟をつかんで、岸壁の鉄の梯子まで引いてきた。コウタが梯子を半分降りて、ニルの脇に腕を差しこんだ。ミラは上から、パーカーのフードをつかんで引いた。濡れた布は、思ったよりずっと重い。指の中で布が滑るたびに、ニルごと海へ戻っていきそうで、ミラは爪を立てて、自分の体重ごと後ろへ倒れこんだ。
コンクリートの上に、ニルを寝かせた。
口の端から、水がこぼれる。咳。ニルが、目を開けた。
焦点の合わない目が、ミラの顔のあたりをさまよった。
「……負けた」
「いつも、負けてる」
コンビニの前で返したのと、同じ言葉が出た。ほかに言える言葉を、ミラは持っていなかった。ニルの唇の端が笑う形に持ち上がりかけて、途中で力が抜けた。目が閉じた。
「息は、ある。大丈夫だ。大丈夫だ」
コウタがニルの首に指を当てて、二度言った。二度目は、たぶん自分に言っていた。それから自分の手を見下ろして、小さく付け足した。
「……すみません。さっき、怒鳴りました」
「怒鳴るんだ、コウタ」
ジャスティンが、濡れた袖を絞りながら言った。
「録っときゃよかった」
「録っていたら、消してください」
「録ってないって」
ミラは笑いそうになった。息が喉の途中で、笑いの形に曲がりかけた。ニルの胸は、まだ浅く上下しているだけだった。
膝立ちになろうとして、膝が血で濡れているのにやっと気づいた。コンクリートで擦ったらしい。痛みは、まだ来ない。体のどこかが、痛みを順番待ちさせていた。
ミラはニルの右手を握った。
冷たかった。
いつもなら、指先がいちばん熱い手だった。日曜には、白くなった自分の指をこの手が温めた。その手が、海の水と同じ温度で、ミラの指の中で小刻みに震えている。
手のひらが赤く腫れていた。親指の付け根に、赤い点が一つあった。駅前のテントで、自分の手にできたのと同じ点だった。
ニルの指先が、ぴくりと動いた。火花を鳴らすときの形だった。パチ、とは鳴らなかった。湿った煙が一筋、細く上がって、潮風にちぎれた。
ジャスティンが濡れた前髪をかき上げて、ニルの右手に鼻を近づけた。
「……まだ焦げてる。ニルの手の、内側から」
それから風上を向いて、首を振った。
「あいつの匂い、もうしない。海には落ちてない。逃げた」
ジャスティンは指を口に当てて、短く口笛を吹いた。倉庫の陰からも、積み荷の隙間からも、猫は一匹も出てこなかった。
倉庫の向こうの道路で、何人かがスマホを掲げていた。黒い煙と、えぐれた岸壁と、その端にしゃがみこむミラたちを、四角い画面の中に入れている。
いつもは手もとだけを映して、見られる量を自分で決めている。今は、何も決められなかった。
風とは逆の、倉庫の裏のあたりから、早口の声が途切れ途切れに聞こえた。誰かが電話をしている。
「……俺のせいじゃねえ、勝手に掴んだんだよ、あいつが。な? 数には入ってる、入ってるって……」
声は、倉庫の裏へ遠ざかって消えた。
勝手に掴んだ。
ミラは自分の手を見た。ニルの冷たい手を握っている、自分の手。昨日の路地で、つまようじを投げた手。
焼きそばを三つ、持ち手を二回ねじって抱えていた人がいた。取り置きの三つは、今日、台の端で冷めていった。その人の足もとの影に、この手で投げた。昔話の影縫いなら、夜が明ければ、また動けたはずだった。
考えるより先に掴むニルと、考えないことにしてから投げた自分。
喉が詰まって、息が浅くなった。誰かに言わなければ、と思った。思ったそばから、言わない理由が次から次へ浮かんでくる。今は、それどころじゃない。誰も信じない。言ったら、ニルは手を離す。
三つめの理由がいちばん重いことに、ミラは気づいてしまった。あの人のことより先に、ニルに嫌われることを考えている。そう考えた手で、まだニルの手を握っていた。
声に出した。
「……消したの、私」
潮風に混じって、誰の耳にも届かなかった。
遠くで、サイレンが鳴り始めた。




