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名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第1章 半額ナイト

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第6章 港

知りたいことの一つ目は、自分の部屋の棚にあった。


木曜の朝、ミラは図鑑の並ぶ棚の、いちばん下の段に手を入れた。深海魚の図鑑の奥に、角のすり切れた昔話の本が一冊、横に寝かせてある。三年、奥へ奥へと押しこんできた本だった。


目次の終わりに、『かげぬい』とあった。


開いたページの余白で、難しい漢字の横に、鉛筆のふりがなが小さく振ってあった。止めとはねのきちんとした、右へわずかに傾いた字。


母の字だった。


指の腹を、字から一ミリ浮かせたまま止めた。読めない字に行き当たるたびに、母は髪に挿した削りかけの鉛筆を抜いて、こうして振ってくれた。ミラ、これはね、と言いながら。


鼻の奥がつんとして、本を顔から少し離した。泣くために開いたのではなかった。


『かげを ぬいとめられた ものは、その ばから いっぽも うごけなくなる。よが あけて、ぬいめが ほどけるまで』


動けなくなる。夜が明けるまで。


最後の行まで、読み返した。消える、とは、どこにも書いていない。


本の言うとおりなら、あの人は朝には歩き出している。


棚の上で、クロが尻尾の先だけを揺らしていた。




「お前さ、昨日の夜、なんか打ってたろ」


防波堤の端に腰かけて、ニルは海の方を向いたまま言った。木曜の放課後だった。テトラポッドの隙間で、波が同じところばかり叩いていた。


ミラは言うつもりでここへ来た。路地のことを、ニルにだけは。


「入力中、って出て、消えて、また出た。で、何も来なかった」


ミラは膝の上で、スマホを裏返した。入力欄には、まだ『いた』の二文字が残っている。夜中に何度か開いて、送るボタンの上に指を置いては、また閉じた。そのたびに向こうの画面では、自分が何かを言いかけていたことになる。ニルはそれを、何回見たのだろう。


「また見たのか」


「……うん」


「で」


「消えた」


口から出たのはそれだけで、ニルの方を見られなかった。消した、と言いかけた唇の形のまま、喉の奥で止まっている。たった一文字の違いだった。言えば、ニルはきっとあの歩道でしたみたいに膝に手をついて、それから何かを言う。その何かを聞くのが、路地よりも怖かった。


ニルは何も聞き返さずに、ミラの右手のまだ白い人差し指の先をちらりと見てから、足もとの小石を拾って、海に投げた。届かずに、テトラポッドに当たって跳ねた。


「下手くそ」


自分で言って、もう一つ拾って、今度はポケットにしまった。


「入力中のまま寝んな。こっちが寝れねえんだよ」




港の入口に、紺色のワゴン車が停まった。コウタが降りて地面を一度踏み、そのあとから背の高い男の人が、助手席を窮屈そうに抜け出してきた。


首と両肩に、猫が乗っていた。茶色いのと、灰色のと、片耳の欠けた白いの。古着の黒いシャツが、毛で半分灰色になっている。


「バイトのジャスティンさんです。うちで、壁の下地を塗ってもらっています」


コウタが言い終わる前に、ジャスティンはミラの前で腰をかがめた。鼻が、すん、と鳴った。


「猫の匂いがする」


ミラは一歩引いた。


「切り抜き、見たよ。あの黒いの、猫の歩き方してなかったでしょ。猫はさ、着地の前に一回だけ尻尾で釣り合いとるの。あれ、とってなかった」


ミラは首を傾げた。猫の尻尾を、そんなふうに見たことはなかった。見ないようにしていたものを、この人は動画の中で何回も見たのだ。


「飼ってるの?」


「飼ってない」


ニルに言ったのと同じことを言った。名前まで、つけたのに。


肩の白い猫が、ミラの足もとを見て毛を立てた。茶色いのが続き、灰色のが続いて、三匹ともジャスティンの背中を伝って反対側の肩へ逃げていった。


ジャスティンは猫たちを片手でなだめながら、緑色の目でミラを見て、笑った。


「みんな口で嘘つくけど、匂いはつかないんだよな」


「こいつ、空気読まねえから」


ニルが言った。


「読んでるよ。読んだうえで言ってる」


「なお悪いわ」




焼きそばの屋台は、倉庫の並びが始まる角で、いつもと同じに湯気を上げていた。


「おっちゃん、人数分」


ニルが、こっちの顔を顎で順に指した。コウタが財布を出した。


台の端に、輪ゴムでまとめたパックが三つ、別にして置いてあった。マジックで『取り置き』と書いた紙が挟んである。


三つ。持ち手を二回ねじった袋が、目の前に浮かんだ。


考えるのは、もうやめない。ゆうべそう決めた。決めたことを、今ここで使う。


「……その取り置き、誰のですか」


思ったより大きな声が出た。ニルが振り向いた。


「いつもの兄ちゃんのだよ。黒いの着てさ、コートの裾にクリーニングの札をつけっぱなしの。火曜と木曜に、三つずつ」


主人は、へらで鉄板をこそいだ。


「今日は来ねえな。冷めちまう」


ホチキスで留めた紙の札が、路地の街灯の下で揺れていた。あれも、一緒に消えた。


鉄板の熱が顔に当たっているのに、背中から汗が引いていく。胃の中のものが、一段下へ沈んだ。火曜と木曜に、三つずつ。ミラは頭の中で、それを一人ぶんと二人ぶんに分けかけて、やめられなかった。


ミラは自分の分の代金を、ちょうどの小銭で台に置いた。三百八十円。コウタが「僕が」と言いかけたのを、首を振って断った。おごってもらっていい理由が、今の自分のどこにも見つからなかった。


パックを受け取ると、先に歩き出した。熱いパックを持つ指だけが、白いまま冷えていた。背中で、ニルが何か言いかけて、やめた気配がした。




倉庫の並ぶ岸壁は、もう暗かった。クレーンの橙の灯りだけが、上の方で積み荷を照らしている。


四人で、防波堤の方へ戻る途中だった。


コウタが、急に足を止めた。片足で、地面を踏んだ。もう一度、踏んだ。


「誰か、倉庫の向こうで止まりました。さっきから、こっちに合わせて歩いていました」


声が、いつもより低い。


ジャスティンの肩で、三匹の猫がそろって同じ方を向いた。


倉庫と倉庫の隙間。人ひとり分の暗がりの奥に、黒いものが立っていた。


コートの形をしていない。フードだった。目深にかぶっていて、顔の下半分だけが、クレーンの灯りで橙色に見える。早口で、誰に聞かせるでもなく、何かをしゃべり続けている。数字が多い。片手に、ペンほどの太さの銀色の筒を握っていた。


フードが、こちらを向いた。


ミラを素通りして、隣のニルの方へ。


ニルが、何も言わずにミラの前へ出た。橙のパーカーの長い袖の先で、パチ、と火花が鳴った。


ジャスティンの鼻が、すん、と鳴った。笑っていた顔から、笑いが抜けた。


「……火薬の匂いがする」


コウタの靴の裏で、地面がわずかに沈んだ。


「近いです」



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