第5章 消えた
つまようじは、まだ宙にあった。林の、黒いコートの方へ。
見ている方へ、飛ぶ。
だったら。
ミラは黒いコートの胸から目を剥がして、首ごと右へ、男のすぐ横の苔の生えた幹を見た。見たくないものから目を逸らすのは、昔から得意だった。得意なことが役に立ったのは、たぶん初めてだ。
つまようじが、空中でもう一度曲がった。
幹に、半分まで埋まった。
男は悲鳴も上げなければ、身をかがめもしなかった。刺さったつまようじをちらりと見て、耳もとに指を当て、口を小さく動かした。それから半歩下がり、木の向こうへいなくなった。
「ミラ?」
ニルが、幹とミラを見比べた。
「なんで木に投げた」
ニルには見えていなかった。
コウタは黙って幹の前まで行くと、作業着の胸ポケットからペンチを出して、つまようじを抜こうとした。三度目で抜けた。先が、焦げたように黒い。コウタは指先でつまんで、すぐに離した。
「……冷たいです。先だけ、氷みたいに」
それを手ぬぐいに包んで、胸ポケットにしまった。
「妙なものは、山に置いていかない方がいいので」
帰りの車は、ダッシュボードの芳香剤がとうに匂いをなくしていて、土とコウタの作業着の汗の匂いだけがしていた。ミラは後ろの席で、親指で人差し指の先をこすり続けた。こすっているあいだは、指が自分のところへ戻ってくる。
言えば、二人に見えなかったものを見た子になる。
「……人が、いました」
言ってしまってから、口を閉じた。
「は?」
ニルが助手席から振り向いた。
「確認です。何がですか」
「人。黒いコートの。林の」
「見てねえ」
「僕も見ていません」
コウタはそれだけ言うと、ウインカーを出した。かちかちという音が、やけに長く続いた。
ニルは前を向いた。しばらく、窓の外の電線を目で追っていた。
「……いたんなら、いたんだろ」
それから、急に言った。
「腹減った。コウタ、コンビニ寄って」
「寄りません。ニルさん、昼にパン三つ食べてましたよね」
「あれは朝の分」
言っても、壊れなかった。ミラは指をこするのをやめて、そのことだけを膝の上で握っていた。
降りるとき、ニルが窓を下げて言った。
「黒コートなら、目、合わせんな。局の下っ端で、因子持ちを見張ってんだって。兄貴が言ってた。捕まえていいことになってるやつらだって」
次の日の放課後、黒いコートは校門から見える、川向こうの歩道にいた。
その次の日は港の交差点で、信号の向こうに立っていた。体の前に、白いビニール袋を一つ抱えている。持ち手を二回ねじって、指に食いこまないようにしてある。中に、屋台の焼きそばのパックが三つ透けていた。ふたの値札は三百八十円。三つで千百四十円。一人で食べる量じゃない。
信号が青になると、男はもういなかった。
引き出しの封筒を、夜に一度出して、また戻した。観測を続けてください。続けているのが、あの人なのかもしれなかった。
ニルには、一度目だけ『いた』と送った。ニルは走ってきて、誰もいない歩道で膝に手をついて息をしていた。肩が上下するたび、パーカーの長い袖が揺れた。二度目は、打って、消した。走らせるのが申し訳なかったし、二度続けて誰もいなかったら、ニルの目が変わるかもしれなかった。
三日目の夕方は、喉が渇いていた。コンビニで冷たいお茶を買って、いつもは通らない近道の路地に入った。足もとの影の方が先に、そっちへ伸びていた。
路地の自販機は、ボタンが一つだけ「売切」に光っていた。
その向こうに、黒いコートの人が立っていた。
近かった。担任と同じくらいの年の、駅ですれ違っても覚えていられないような顔。コートの裾の内側に、クリーニング屋の紙の札が、ホチキスで留まったまま揺れている。目が合うと、困ったように眉を寄せて、半歩だけ下がった。
声が出なかった。お茶が手から落ちて、自販機の下まで転がっていった。
影が、足もとでぞわりと濃くなった。濃くなった縁に、耳の尖りが二つ浮いた。自分の影にはないはずの形だった。
胸を見なければ、当たらない。林でそうだった。
ついてこないで。もう、止まって。
影を縫いとめれば、足が止まる。小さいころ、昔話の本で読んだ。止めるだけ。刺すんじゃない。
小箱を開けた。
一人で投げんな、とニルは言った。その声を、ミラは自分の手で脇へ押しやった。ここにニルはいないし、呼べばニルはまた膝に手をついて息を切らす。
つまようじの先に、黒い糸のようなものが巻きついていくのが、目の端に映った。『そう』としか言わなくなった人のことが、頭の隅をかすめた。あれはクロだ。私じゃない。そう分けて、見ないことにした。見ていたのは、男の体ではなく、街灯が足もとに落とした影だけだった。
投げた。
つまようじは影に落ちて、音を立てなかった。
沈んだ。
男の輪郭が、ざらりと揺れた。回線の落ちた配信画面みたいに。それから、消えた。
裾の札も、一緒に消えた。
路地には誰もいなかった。街灯の下に影はなく、つまようじも、どこにもない。
膝が抜けた。しゃがんだというより、落ちた。影のあったところを指でなぞる。アスファルトが冷たいだけだった。耳の奥で自分の血の音がうるさく、喉が何かを飲みこもうとして、飲みこむものがなくて、えずいた。
人じゃなかったんだ、と思うことにした。人じゃなければ、誰も痛くない。
でも、人じゃないものが、コートをクリーニングに出すだろうか。
ミラはそこで、考えるのをやめた。自販機の下に手を突っこんで、お茶を引っぱり出した。指が震えて、二度つかみそこねた。
ニルに『いた』と打った。送らなかった。消しもしなかった。
部屋に戻ると、棚の上でクロが大きなあくびをした。目の赤が、いつもより薄い。満腹の猫の顔をしている。
椅子の上で膝を抱えて、ノートに貼ったシールを端から指でなぞりながら、十時を待った。
今夜は、何も勝っていない。半額の棚には寄りもしなかった。勝った夜だけ、と決めたのは自分で、その決まりを破るのは三年で初めてだった。それでも配信を始めた。タカの『こんばんは』を見たかった。誰かがいつもどおりに自分を呼ぶところを、今夜だけは見ておきたかった。
同接は、あの夜から三百を割っていない。
『こんばんは』『クロ眠そう』『荒らしの人、抜け殻になったってマジ?』
その一行が流れきるまで、息を止めていた。あの夜の名前と路地の札が、頭の中で同じ棚に並んだ。並べたくなかった。
『今日、手、白くない?』
ミラは右手の人差し指を、画面の外へ引いた。
流れていく名前の中に、タカを探した。始めてすぐに、必ず来るはずの一行。
画面の端の時計が、一つ進んだ。もう一つ進んだ。
タカの『こんばんは』は、来なかった。
四百何十回、一度も欠けなかった一行だった。
路地の人にも、焼きそばを三つ持って帰る先があった。そこで待っている誰かが、今夜もいる。
知りたい、と思った。あの人がどこへ行ったのか。自分の影が、何をしたのか。
考えるのをやめたのは、これで二度目だった。三度目は、やめないことにした。




