第4章 土
玄関のフックに、鍵がなかった。
『九時半に下で』『投げるとこ、見せたいやつがいる』と、ゆうべニルから来ていた。九時半まで、あと七分。
鍵は、帰ってきて靴を脱ぐ前に掛ける。昨日も二度確かめてから掛けた。確かめた指の感触まで覚えている。
鞄をひっくり返して、上着のポケットを探って、台所の引き出しも開けて、それでも出てこなくて、とりあえずもう一度玄関に戻ったら、フックに掛かっていた。
いつもの向き。
その前に立ったまま、鍵の輪に指を通せなかった。触ったら、何かを認めることになる気がした。
振り向くと、棚の上のクロと目が合った。クロの方が先に、ふいと顔を横へ向けた。窓の外の、何もないところを見ている。
いつもは、ミラの方が先に逸らす。
フックの真下の床に、黒い毛が一本落ちていた。
昨日、そこにいてくださいと頼まれた日に、ミラはクロを置いて部屋を出た。
怒っている、のかもしれなかった。猫に怒られたことはない。そもそも置いていかれたと思われるほど、何かのそばにいたことがない。そう考えると、床の毛の一本が妙に重たく見えた。
「……ごめん」
小さく言った。謝った声が、思っていたより細い。怒らせたままにしておく方が、怖かった。
クロの耳が片方だけこちらを向いて、また戻った。
スマホが鳴った。ニルから『下』と一文字だけ来ていた。
鍵を握って、ミラは靴を履いた。背中で、尻尾が一度、棚を打った。
アパートの前に、紺色の古いワゴン車が停まっていた。後ろの窓から、土の袋が積んであるのが見える。扉に、かすれた字で左官の屋号が入っていた。
運転席から降りてきた男の人は、地面に立つ前に、片足で軽くアスファルトを踏んだ。それから両足で立った。
背が高い。見上げる角度が、ニルのときの倍くらいある。作業着の膝に、白く固まった泥がついている。
「ミラさんで、合ってますか」
「はい」
「コウタです。ニルさんから、話は聞いています」
腰から折れるように頭を下げられて、ミラも慌てて下げた。年上の人にここまで丁寧にされると、何か返さなければいけない気がして、返すものが一つも見つからない。
「こいつ、誰にでもこうだから」
助手席の窓から、ニルが顔を出した。
「一人で投げんなって言ったろ。だから三人」
「ニルさんが練習で壁に突っ込むたびに、塗り直しに行っていました。それで知り合いです」
「三回だけだろ」
「確認しました。七回です」
ニルが窓を閉めた。コウタは表情を変えずに、ミラのために後ろのドアを開けた。
後ろの席に座ると、助手席から小箱が飛んできて、膝の上に落ちた。昨日ニルに取り上げられた、つまようじの小箱だった。
「三人なら、いい」
ニルは前を向いたまま言った。
ミラは小箱を握った。会ったばかりの人の前で、投げる。それが自分の手から何を出すのか、ミラ自身もまだ知らないのに。
町の裏の山道を上った。ニルが「まだ?」と聞くたびに、コウタは「まだです」と同じ声で答えた。四回目の「まだです」で、ニルはシートを倒して寝たふりをした。
木を切って平らにした場所が、コウタの家の資材置き場だった。
コウタは車の後ろから袋を一つ下ろし、地面に中身を空けた。しゃがんで、両手を土に置く。
土が盛り上がった。膝くらいの高さの、ずんぐりした人形になった。顔はない。それが、のそのそと二歩歩いた。
「左官の家なので」
手の泥を払いながら、なんでもないことのように言った。
「土は、塗れば壁になります。積めば立ちます。毎日そう思って触っていたら、こうなりました。こてと同じです」
ミラは自分の手を見た。毎日何かを思って触っていたものなんて、シールの端くらいしか思いつかなかった。
コウタは立ち上がって、足もとの地面を靴の裏で一度踏んだ。
「足もとが確かじゃないと、何も建ちません。何ができるか分からないまま使うのが、一番怖い」
それから、人形の方へ顎を向けた。
「投げてみてください。あれに」
人形はこちらに背を向けて、歩き出したところだった。
ミラは小箱から一本抜いた。ニルが黙って隣に立った。
投げた。
影の腕が、先に振られた。
つまようじは人形の背中へ飛んだ。人形が横へ一歩ずれる。つまようじは、その一歩の分だけ空中で曲がった。
肩に刺さった。ほぐれた土が、ぱらぱらとこぼれた。
「曲がりました、今」
丁寧なままのコウタの声が、そこだけ上ずった。
「見たかよ」
ニルが、ミラではなくコウタの背中を叩いた。
「曲がったぞ。俺の目の前で」
「狙って曲げましたか」
ミラは首を振った。
「……見てた、だけです」
目が追ったところへ、つまようじが追いつく。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。半額の棚に最後の一個を見つけたときと、同じところが跳ねた。うれしい、と思ってから、うれしがっていい場面なのかを考えた。
二本目を抜こうとして、指がうまく動かないことに気づいた。
右の人差し指の先が、白い。爪の下まで、血の色が引いている。押しても何も感じない。自分の指なのに、借りてきた誰かの指を見ているみたいだった。
折り返していた袖を下ろして、隠しかけた。コウタの目が、もうそこにあった。
「確認です」
コウタがしゃがんで、ミラの手の高さに目を合わせた。
「指、白いです」
「……平気、です」
言ってから、平気じゃない、と思った。平気と言えば、この人はたぶんそれ以上は聞かない。
ニルが何も言わずに、ミラの指をつかんだ。パチ、と小さな火花が鳴った。光るだけの火花だった。熱は、それを包んでいるニルの手のひらから、少しずつ戻ってきた。
「……昨日は、これ、なかった」
「昨日は気づかなかっただけだろ。今日は見てるやつが二人いるから、気づいたんだよ」
ニルは乱暴に言って、指を離さなかった。それが合っているのかどうか、たぶん、ニル本人にも分かっていなかった。
「因子は、使ったぶんを体から持っていきます。僕も、土を立てた日は手が冷えます」
コウタが自分の手のひらを見せた。指の腹が、白っぽくひび割れていた。
「ミラさんのは、持っていかれ方が急です」
ニルの手が離れてから、ミラは二本目を抜いた。指先は、まだ半分他人のものだった。
人形が、また歩き出した。今度は、林の方へ。
ミラは目で、その背中を追った。追った先の、林の暗いところへ目が行った。
木の間に、黒いものが立っていた。
幹の影にしては黒すぎる。カラスにしては大きすぎる。
人だった。黒いコートの人が、木と木の間で、半歩だけ後ろに下がった姿勢のまま、こちらを見ていた。
目が合う。
背中の汗が、急に冷えた。人形が歩くのも、つまようじが曲がるのも、白くなった指も。あの人は、いつから見ていたのか。見ていたなら、それを誰に話すのか。喉の奥が乾いて、貼りついた。
局、の一文字が、頭の中で印刷の書体になった。
指の間で、つまようじが動いた。投げるつもりはなかった。投げない、とはっきり思ってさえいた。
足もとで、影の腕だけが先に振られていた。
つまようじは人形の頭を越え、林の方へ曲がった。
止めて、と思うより先に、ミラの目は黒いコートの胸の真ん中に止まっていた。




