↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前をつけた黒猫の影は、私が怖がるほど大きくなった。何も言えなかった私が、最後に選んだ話  作者: rururu-nn
第1章 半額ナイト

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/29

第3章 つまようじ

『それが見えるところに、いてください』


土曜の朝、アーカイブのコメント欄に、その一行が増えていた。


書いたのは、『こんばんは』の人だった。名前の欄に、タカとある。配信のたびに見てきたはずの名前を、今になって、名前として読んだ。


挨拶のほかには『今日は、もう休んでください』しか打ったことのない人が、初めて頼みごとをしている。


それ、が何なのかは書いていない。ミラは棚の上を見た。クロが、尻尾の先だけを揺らしていた。


それ、がクロのことなら、見えるところにいるのは、まだ怖い。それ、があの暗い水の中の目のことなら、見えるところなんて、どこにもない。


机の上には、昨日の便箋がある。観測。ニルの口からも、同じ言葉を聞いた。ニルの月一の診察は、土曜の朝だった。


病院の紙にも、本当にそう書いてあるのか。確かめに行く。確かめれば、封筒はただの病院の言葉になって、怖くなくなるかもしれない。


いてください、と書いてある。ミラはスマホを伏せて、灰色のカーディガンを取った。クロはついてこなかった。




市民病院は、川沿いの坂の下にあった。


自動ドアの前で、ミラは足を止めた。三年、来なかった。来ないように、通学路まで一本ずらしていた。


「お、来たじゃん。下ばっか見て歩いてくるから、すぐ分かった」


ドアの内側から、ニルが出てきた。橙のパーカーの袖から、紙が一枚のぞいている。


「月一のやつ。今終わった。採血、入んなくてさ。俺の血管、人見知りなんだって。三回刺された」


ニルは紙を広げて、ミラの顔の前に突き出した。予約票だった。因子外来、の下に、印刷の文字が並んでいる。


『定期経過観測 次回 四月』


「ほら。観測って書くんだよ、ここ。星かよ」


観察、と心の中で直したのは、自分の方の間違いだった。ニルは漢字に弱い、と思っていたことを、ミラはこっそり取り下げた。


昨日の手紙と同じ言葉で、印刷の書体まで同じに見えた。紙の上では、ただの事務の言葉だ。それなのに指先が冷えた。


「入る? 付き合うけど」


ミラはうなずいて、一歩出た。自動ドアが開いた。


消毒液の匂いが、顔に当たった。


足が止まった。止めたのではなかった。膝から下が、床に縫いつけられたみたいに動かない。胃の底がせり上がり、舌の付け根に酸っぱいものが溜まる。三年前、この病院のベッドで目を覚ましたとき、父と母はもう帰ってこない人になっていて、そのあいだの夜のことをミラは何も覚えていない。頭が覚えていないことを、体の方が覚えていた。


ドアが、ミラを待ちきれずに閉まった。


「……ごめん」


「いいって」


ニルは予約票をポケットにねじこんで、ミラの横に並んだ。それ以上、何も聞かなかった。


聞かれなかったことに、ほっとした。ほっとした自分のことは、好きになれなかった。




駅前の大型ビジョンで、白黒の猫が跳んでいた。


その下で、小柄な女の人が同じ方向へ体をひねる。画面の端に「交流戦 個人総合 国内一位 ハズキ」と出る。インタビューで、ハズキは話し出す前に、その場で軽く跳ねた。


「因子持ちなんて今どき珍しくもねえけど、あそこまで化けんのは国に何人もいねえ。もとはジャンプがちょっと上手いだけらしいぜ」


ニルが見上げたまま言った。


ああいう猫なら怖くないのに、と思った。大きな画面の真ん中で、跳ぶたびに拍手をもらう猫。思ってから、誰と比べたのかに気づいた。棚の上で誰にも拍手されないまま、ティッシュに前足を出している猫。比べられたと知ったら、あれはどんな顔をするのだろう。ミラは足もとを見た。影は、ちゃんと一本だった。




信号の手前に、白いテントが出ていた。のぼりに丸い文字で「新発売 つまようじ因子 無料サンプル」。


「なにそれ」


ニルが吹き出した。法被を着た若い男の人が、ペンのような細い器具を配っている。


そのとき男の人の足がのぼりの重しに引っかかって、箱が傾き、ペンのような器具がアスファルトに散らばった。


ミラは反射でしゃがんで、一本拾った。キャップが外れていた。親指の付け根に、ちくりと当たった。


かち、と小さな音がした。


「お、お客様、それ、今……因子、お持ちですか」


「……影、です。ちょっと動くだけの」


「か、影」


男の人の声が裏返った。


「……やっぱ、影か」


隣で、ニルがほとんど聞こえない声で言った。


小学生のとき、紙に「影 微弱」と書かれた。備考の欄に、小さく「低体温傾向」とあった。それきり、ほとんど使っていない。使い道を考えないようにしてきた。


「二個目じゃん!」


ニルがミラの手首をつかんだ。指が熱い。


「二個目入れたら、熱出たり、勝手に出たりすんの。病院……」


言いかけて、ニルは坂の下の方を見た。口を閉じた。


親指の付け根に、赤い点が一つあるだけだった。熱くも痛くもない。何も起きないことが、だんだん怖くなってきた。起きるなら、早く起きてほしかった。




男の人は震える手でバインダーを出した。『事故報告書』と印刷してある。


「お、お名前と、ご連絡先を。本社と、それから局の方にも、報告が」


局。


三年前、病室の枕もとに積まれた書類の、いちばん上の欄にあった一文字だった。読めないふりをしていたら、大人たちはミラを読めない子として扱い、頭の上で番号や日付の話を続けて、誰もミラの顔を見なかった。


気づいたときには、もう立ち上がっていた。ニルが手首をつかんだまま、先に歩き出した。理由を聞かずに、引っぱる方の手になってくれた。


「お、お詫びです!」


追いかけてきた男の人が、つまようじの小箱を一つ、ミラの手に押しこんだ。名刺も出しかけて、それが上司の名刺だと気づいて、引っこめた。


駅のベンチで、ニルが小箱の裏を読み上げた。


「投げたつまようじが、狙った方向へ向かいます。※刺さりません。……刺さんねえのかよ。じゃあ何なんだよ、これ」


一本抜いて、ミラに渡した。


「投げてみ。どうせ何も起きねえって」


バス停の屋根を支える木の柱が、正面にあった。ミラはカーディガンの袖口を折り返し直して、手首だけで軽く放った。


指から離れる前に、足もとの影の腕が先に振られていた。


つまようじは、まっすぐ飛んだ。柱に当たって、跳ね返らなかった。


半分まで、木に埋まっていた。


ニルが柱の前まで行って、つまんで引いた。両手でも、抜けなかった。


「刺さりません、って書いてあんだろ」


ニルは小箱の裏を、もう一度読んだ。書いてあることは、変わっていなかった。


分からないままの方が楽だった。今朝も、自動ドアの前で足が止まった。


小箱から、二本目を抜いた。今度は、誰にも言われていなかった。


柱の、さっきより上を見た。投げた。


二本目は、一本目のすぐ上に刺さった。乾いた音がした。


胸の奥で、心臓が一つ鳴った。少し遅れて、もっと深いところで、もう一つ鳴った気がした。柱に当たった音が、まだ耳に残っているだけだと思うことにした。


手のひらが、今ごろになって汗ばんだ。それなのに指は、もう三本目の頭を探していた。


ニルがミラを見ていた。笑っていなかった。


「……ニルは、怖くないの」


「怖えよ」


ニルは即答して、ミラの手から小箱を取り上げた。


「だから、一人で投げんなって言ってんの」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。