第3章 つまようじ
『それが見えるところに、いてください』
土曜の朝、アーカイブのコメント欄に、その一行が増えていた。
書いたのは、『こんばんは』の人だった。名前の欄に、タカとある。配信のたびに見てきたはずの名前を、今になって、名前として読んだ。
挨拶のほかには『今日は、もう休んでください』しか打ったことのない人が、初めて頼みごとをしている。
それ、が何なのかは書いていない。ミラは棚の上を見た。クロが、尻尾の先だけを揺らしていた。
それ、がクロのことなら、見えるところにいるのは、まだ怖い。それ、があの暗い水の中の目のことなら、見えるところなんて、どこにもない。
机の上には、昨日の便箋がある。観測。ニルの口からも、同じ言葉を聞いた。ニルの月一の診察は、土曜の朝だった。
病院の紙にも、本当にそう書いてあるのか。確かめに行く。確かめれば、封筒はただの病院の言葉になって、怖くなくなるかもしれない。
いてください、と書いてある。ミラはスマホを伏せて、灰色のカーディガンを取った。クロはついてこなかった。
市民病院は、川沿いの坂の下にあった。
自動ドアの前で、ミラは足を止めた。三年、来なかった。来ないように、通学路まで一本ずらしていた。
「お、来たじゃん。下ばっか見て歩いてくるから、すぐ分かった」
ドアの内側から、ニルが出てきた。橙のパーカーの袖から、紙が一枚のぞいている。
「月一のやつ。今終わった。採血、入んなくてさ。俺の血管、人見知りなんだって。三回刺された」
ニルは紙を広げて、ミラの顔の前に突き出した。予約票だった。因子外来、の下に、印刷の文字が並んでいる。
『定期経過観測 次回 四月』
「ほら。観測って書くんだよ、ここ。星かよ」
観察、と心の中で直したのは、自分の方の間違いだった。ニルは漢字に弱い、と思っていたことを、ミラはこっそり取り下げた。
昨日の手紙と同じ言葉で、印刷の書体まで同じに見えた。紙の上では、ただの事務の言葉だ。それなのに指先が冷えた。
「入る? 付き合うけど」
ミラはうなずいて、一歩出た。自動ドアが開いた。
消毒液の匂いが、顔に当たった。
足が止まった。止めたのではなかった。膝から下が、床に縫いつけられたみたいに動かない。胃の底がせり上がり、舌の付け根に酸っぱいものが溜まる。三年前、この病院のベッドで目を覚ましたとき、父と母はもう帰ってこない人になっていて、そのあいだの夜のことをミラは何も覚えていない。頭が覚えていないことを、体の方が覚えていた。
ドアが、ミラを待ちきれずに閉まった。
「……ごめん」
「いいって」
ニルは予約票をポケットにねじこんで、ミラの横に並んだ。それ以上、何も聞かなかった。
聞かれなかったことに、ほっとした。ほっとした自分のことは、好きになれなかった。
駅前の大型ビジョンで、白黒の猫が跳んでいた。
その下で、小柄な女の人が同じ方向へ体をひねる。画面の端に「交流戦 個人総合 国内一位 ハズキ」と出る。インタビューで、ハズキは話し出す前に、その場で軽く跳ねた。
「因子持ちなんて今どき珍しくもねえけど、あそこまで化けんのは国に何人もいねえ。もとはジャンプがちょっと上手いだけらしいぜ」
ニルが見上げたまま言った。
ああいう猫なら怖くないのに、と思った。大きな画面の真ん中で、跳ぶたびに拍手をもらう猫。思ってから、誰と比べたのかに気づいた。棚の上で誰にも拍手されないまま、ティッシュに前足を出している猫。比べられたと知ったら、あれはどんな顔をするのだろう。ミラは足もとを見た。影は、ちゃんと一本だった。
信号の手前に、白いテントが出ていた。のぼりに丸い文字で「新発売 つまようじ因子 無料サンプル」。
「なにそれ」
ニルが吹き出した。法被を着た若い男の人が、ペンのような細い器具を配っている。
そのとき男の人の足がのぼりの重しに引っかかって、箱が傾き、ペンのような器具がアスファルトに散らばった。
ミラは反射でしゃがんで、一本拾った。キャップが外れていた。親指の付け根に、ちくりと当たった。
かち、と小さな音がした。
「お、お客様、それ、今……因子、お持ちですか」
「……影、です。ちょっと動くだけの」
「か、影」
男の人の声が裏返った。
「……やっぱ、影か」
隣で、ニルがほとんど聞こえない声で言った。
小学生のとき、紙に「影 微弱」と書かれた。備考の欄に、小さく「低体温傾向」とあった。それきり、ほとんど使っていない。使い道を考えないようにしてきた。
「二個目じゃん!」
ニルがミラの手首をつかんだ。指が熱い。
「二個目入れたら、熱出たり、勝手に出たりすんの。病院……」
言いかけて、ニルは坂の下の方を見た。口を閉じた。
親指の付け根に、赤い点が一つあるだけだった。熱くも痛くもない。何も起きないことが、だんだん怖くなってきた。起きるなら、早く起きてほしかった。
男の人は震える手でバインダーを出した。『事故報告書』と印刷してある。
「お、お名前と、ご連絡先を。本社と、それから局の方にも、報告が」
局。
三年前、病室の枕もとに積まれた書類の、いちばん上の欄にあった一文字だった。読めないふりをしていたら、大人たちはミラを読めない子として扱い、頭の上で番号や日付の話を続けて、誰もミラの顔を見なかった。
気づいたときには、もう立ち上がっていた。ニルが手首をつかんだまま、先に歩き出した。理由を聞かずに、引っぱる方の手になってくれた。
「お、お詫びです!」
追いかけてきた男の人が、つまようじの小箱を一つ、ミラの手に押しこんだ。名刺も出しかけて、それが上司の名刺だと気づいて、引っこめた。
駅のベンチで、ニルが小箱の裏を読み上げた。
「投げたつまようじが、狙った方向へ向かいます。※刺さりません。……刺さんねえのかよ。じゃあ何なんだよ、これ」
一本抜いて、ミラに渡した。
「投げてみ。どうせ何も起きねえって」
バス停の屋根を支える木の柱が、正面にあった。ミラはカーディガンの袖口を折り返し直して、手首だけで軽く放った。
指から離れる前に、足もとの影の腕が先に振られていた。
つまようじは、まっすぐ飛んだ。柱に当たって、跳ね返らなかった。
半分まで、木に埋まっていた。
ニルが柱の前まで行って、つまんで引いた。両手でも、抜けなかった。
「刺さりません、って書いてあんだろ」
ニルは小箱の裏を、もう一度読んだ。書いてあることは、変わっていなかった。
分からないままの方が楽だった。今朝も、自動ドアの前で足が止まった。
小箱から、二本目を抜いた。今度は、誰にも言われていなかった。
柱の、さっきより上を見た。投げた。
二本目は、一本目のすぐ上に刺さった。乾いた音がした。
胸の奥で、心臓が一つ鳴った。少し遅れて、もっと深いところで、もう一つ鳴った気がした。柱に当たった音が、まだ耳に残っているだけだと思うことにした。
手のひらが、今ごろになって汗ばんだ。それなのに指は、もう三本目の頭を探していた。
ニルがミラを見ていた。笑っていなかった。
「……ニルは、怖くないの」
「怖えよ」
ニルは即答して、ミラの手から小箱を取り上げた。
「だから、一人で投げんなって言ってんの」




