第2章 観測を続けてください
朝、制服に着替えるより先に、あの名前を検索した。
『しゃべれよ役立たず』と書いて、一覧から消えた名前。最後の投稿は、ゆうべの十時十一分。『今から黙ってる配信荒らしてくる』。
その下に、仲間らしい人たちの返信が増えていた。
『で、泣かせた?』『おーい』『いいねついてんのに返事ねえ』
朝の六時台に、本人から一つだけ返っていた。
『そう』
それきりだった。
『こいつ朝から何言っても「そう」しか言わない』『親が病院連れてったって』『怖い話しても顔変わんねえの、マジで』『影うすくね?』
最後の一行には、草が三つ生えていた。冗談のつもりなのだろう。
病院、の字で、親指が画面から浮いた。この人にも、朝の六時に返事を待っている誰かがいる。
私は何もしていない。ボタンに触っていない。打ったのは向こうだ。
そう並べてみても、胃のあたりの重さは一グラムも減らなかった。
棚の上で、クロは前足に顎をのせて眠っていた。ミラは目を合わせないように、床の影だけを見た。朝の光の中で、猫の影は猫より指二本ぶん長い。灯りを消す前と、同じ長さだった。
靴を履くあいだ、二百九十八の半分を三回数えた。
アーカイブは、まだ消していない。夜中に一度だけ、自分のいない四分を見返した。空の椅子と、床で縮んでは戻る黒。それしか映っていなかった。
あの目は、どこにも映っていなかった。
今日、もう一度だけ探す。見つけてどうするのかは、決めていない。
スマホを裏返して、鞄の底に入れた。
切り抜きのサムネイルには、黄色い文字で「後ろ」とだけ入っていた。椅子から人が消えて四分後に戻る三十秒は、朝のうちに十一万回再生されていた。
「これ知ってる? 半額ナイト」
前の席のミナコが、椅子ごと振り向いた。首にかけたヘッドホンのコードを、指に巻いたりほどいたりしている。
「手しか映さない無言配信でさ、ずっと過疎ってたのに、一晩でこれ。ずるくない? あたし毎日しゃべって十二人だよ。しゃべって、だよ」
画面の中で、見覚えのある指が机の端をつかんだまま、一本ずつ黒い方へ剥がれていった。ミラは自分の手を机の下に引っこめた。右の人差し指の、ささくれの位置まで同じだった。
それ、私の。
口の中で形にしただけで、喉の手前で止まった。言えば、ミナコの目が変わる。羨ましいの目か、気味が悪いの目か。どちらにしても、今の目ではなくなる。
「怖いのが受けるんだよね、結局。あたしも明日から黙ろっかな」
「お前が? 無理だろ。三秒で死ぬ」
隣の席から、ニルが言った。ミナコが消しゴムを投げ、ニルは首だけで避けた。消しゴムはミラの机に落ちた。ミラは黙って、それをミナコの机に返した。
ミナコは笑っていたけれど、十二人、と言うときだけ声が遅くなっていた。
その十二人の中に、ミラもいる。最初の夜から一度もコメントせずに、布団の中で聞いている。同接の数字の、一つぶんだけ。
「見して」
ニルが首を伸ばして、動画を指で止めた。巻き戻して、もう一度止める。
「ここ。脚みたいなの、全部こいつの足もとから出てる」
「いや、それ、猫じゃなくない?」
ニルの声が、低くなった。ミナコが画面を取り返す。ニルはミラを見て、何か言いかけて、首の後ろをかいた。
「お前、やっぱ病院行け。俺なんか月一で、経過観測だぞ」
観察、とミラは心の中で直した。口には出さなかった。
放課後、ミナコに袖を引かれた。
「屋上で配信するの。後ろで座っててくんない? 誰かいると、あたし、声が出るんだよね。あ、映ってもいいよ? ミラ、顔だけはいいんだから」
「……だけは」
断る言葉の二つ目が見つからないまま、足はもう階段を上っていた。
屋上の手すりの向こうで、港のクレーンが夕日を浴びていた。ミナコは耳たぶをつまんで、二度引っぱった。
「なんか今日、耳がキンキンすんだよね。風かな」
それから咳払いを一つして、画面に向いた。
「はい、こんばんはー。今日は屋上から」
声が、教室で聞くより半音高くなった。ミラは給水塔の陰に座って、その高さを耳で覚えた。
日が沈みきると、屋上の四隅で照明が灯った。白い光が四つ。ミナコの足もとから、影が四本、花びらのように開く。
ミラは自分の足もとを見た。
四本。それから、給水塔の方へ、もう一本。
五本目だけ先が丸く、頭の上に耳のような尖りが二つあった。どの灯りとも、向きが合わない。クロは、部屋の棚の上に置いてきたはずだった。
息を止めて、五本目の真ん中を見た。底のない黒。ゆうべの水と、同じ色だった。目が、どこかで開くかもしれない。開いてほしいのか、ほしくないのか、膝を抱えた腕に爪が食いこんだ。
風向きが変わった。潮の匂いの中に、流れている川の匂いが一筋混じる。この町の川は、こんな匂いはしない。
五本目の先が、ミラの爪先へ、指一本ぶん寄ってきた。心臓が跳ねたのと、同じ速さだった。
「え、ちょっと待って。『後ろの子の影、多くない?』だって」
ミナコが振り向いて、照明の数を指で数え、ミラの足もとを数えた。
ミラは立ち上がった。照明の外へ出ようと、右へ一歩踏み出す。足が地面につく前に、五本目の影は、もう右へ動いていた。
「……ごめん、帰る」
「えー、ミラじゃん、そういうとこ」
背中でミナコが笑って、配信の声のまま視聴者に謝っていた。
坂の途中で、ミナコの配信を開いた。同接、十一。
再生を押すと、数字が一つ増えた。
「あ、戻った」
ミナコの声が言った。誰が戻ったのかも知らないまま、嬉しそうに。名前も知られないまま喜んでもらえるのはずるいことだと分かっていて、ミラは再生を止めなかった。
アパートの郵便受けに、封筒が一通入っていた。
白い封筒。宛名はミラの名前と部屋番号だけで、細い字の手書きだった。切手も消印もない。誰かがここまで歩いて来て、入れていった。
階段を上りながら封を切る。便箋が一枚。真ん中に、印字の一行。
『観測を続けてください』
観察ではなく、観測。ミラは首を傾げた。
部屋に入ると、棚の上からクロが降りてきた。ミラは一歩下がった。下がった分だけ、床の影がついてくる。
クロは封筒に鼻を近づけると、毛を逆立てた。耳を伏せ、声も出さずに机の下へ潜りこむ。ゆうべ、人を一人吐き出した猫が。
続けてください、と書いてある。
続けて、ということは、もう誰かが始めている。




