第1章 半額
コンビニは、蛍光灯のせいで昼より白かった。
デザートの棚のいちばん下に、パンケーキが一つだけ残っていた。二百九十八の値札の上に、赤いシールが斜めに貼ってある。百四十九。
きっちり半分。端数を一円も残さない半額は、店から一本取った手ごたえがある。
シールのある夜だけ、一言もしゃべらない配信をする。今夜は、その夜だった。
棚のガラス扉に、肩につく銀の髪の女の子が映っていた。値札をのぞきこんだまま、膝まである灰色のカーディガンの裾を床につきそうにしている。自分だった。
「勝ち」
口の中だけで言ったつもりが、冷凍ケースの前から返事がきた。
「なにが勝ちだって」
同じクラスのニルだった。棒アイスを二本つかんでいる。兄のお下がりの橙のパーカーは袖が長すぎて、指先しか出ていない。その指先で、パチ、と小さな火花が鳴った。女子なのに「俺」と言うのは学年でニルだけだ。
「パンケーキ。最後の一個」
「高二にもなって、半額で勝ちかよ。地味だな」
「勝ちは、勝ち」
店の前の車止めに、ニルが腰を下ろした。三月の夜風に港の潮の匂いが混じっていて、ミラはカーディガンの前をかき合わせた。
駐車場の隅に、いつもの茶トラが丸くなっていた。しゃがむと、片目だけ開けて額を押しつけてくる。前に一度、雀をくわえてきて、車止めの前に置いていったことがある。ミラの指先だけは、撫でても温まらない。
「手、冷てえの?」
ニルがアイスをくわえたまま、空いた指を鳴らした。パチ。橙色の光が弾けて消える。
「俺の因子、光るだけ。それで病院の判子までもらってんだぜ。お前も行けよ、そろそろ」
病院、と聞いただけで、鼻の奥に消毒液の匂いがよみがえりかけた。ミラは答えずに茶トラの背中を撫でた。
ニルは食べ終えた棒を二本とも街灯にかざした。どちらにも、何も書いていない。
「負け」
「いつも負けてる」
「うるせ。今日は二回負けただけだ」
茶トラの爪が一本、カーディガンの袖に引っかかったまま止まった。急に背中を丸め、低く唸ると、植え込みの奥へ走っていく。
街灯の下に、黒い猫が座っていた。片手に乗りそうなくらい小さい。輪郭だけがやけにくっきりしていて、こちらを向いた目は止まれの信号の色をしている。ここ何日か、アパートの階段の下で見かける猫だった。目が合うと、いつもミラの方が先に逸らしてきた。
「お前に、ついてきてんじゃね? 名前つけてやれよ」
「……飼ってないし。ニルがつければ」
「やだよ。お前についてきてんだから、お前が決めろ」
名前をつけたら、飼っていることになる。もう知らないとは言えなくなる。それなのに黒猫は、呼ばれるのを待っている顔をしていた。
「……クロ」
「まんまじゃん。お前、ハムスター飼ったら『ハム』だろ」
「……ハムは、かわいい」
ニルが吹き出して、ミラも笑った。笑いながら、指先がさっきより冷えているのに気づいた。
部屋に戻って、パンケーキを皿に移した。蓋の赤いシールは、まだ剥がさない。机の右側に、シールのノートの三冊目を開いた。一冊目から数えて、三年ぶんの赤いシールが並んでいる。窓と玄関の鍵を、二度確かめた。棚の上の写真立ては、伏せたまま。
天井の灯りを消して、机のライトだけを点けた。机の正面にスマホを立てると、画面に映るのは机と、首から下の自分と、肩越しの棚だけになる。ライトの光が、背中の壁に椅子と自分の影を大きく貼りつけていた。
録音した自分の声を一度聞いてから、配信では一言もしゃべっていない。一言打てば、誰かが返してくる。返ってきた言葉が思っていたのと違ったら、それはもう取り消せない。言わなければ、何も壊れない。
十時ちょうど。同接、六。
『こんばんは』
始めてすぐに、同じ人が必ず打ってくる一行。四百十二回目。返そうとして指が迷い、迷っているうちに次の行が流れてくる。
『今日もパンケーキだ』『シール剥がす手つき好き』
常連たちがミラを置いて、誰かの家の猫が掃除機に三連敗した話を始めた。口の端だけで笑う。六人ぶんの声がしゃべっているこの時間だけ、部屋が狭くない。
『え、猫いる?』
シールの端をつまんだまま、指が止まった。
プレビューを見た。肩越しの棚の上に、黒い輪郭が座っている。窓も鍵も、閉めてある。
『目赤くね?』『加工やろ』『なんか怖い』
同接が、見るたびに増えていく。
『名前は?』『無視かよ』
『しゃべれよ役立たず』
見たことのない名前だった。役立たず、の四文字だけが流れずに、喉の奥の、ものを飲みこむときに使うあたりに引っかかった。
棚の上で、猫の目がミラから外れた。机のカメラのレンズへ。そのまた奥の、さっきの一行を打った誰かの方へ、ゆっくり動いた。
『こわいこわいこわいw』
こわい、の字が流れるたび、背中の壁の影が濃くなっていく。棚の上の猫は、皿の前に座ったみたいに落ち着いていた。
『後ろ』
『後ろ』『後ろ見て』
『振り向けって』『後ろ』『早く』
シールを半分剥がした指が、動かない。首の後ろだけが、冷凍ケースに肘まで腕を入れたときみたいに冷たい。
振り向いたら、画面の中の話ではなくなる。
椅子の背の、すぐ後ろ。影から、関節のある細いものが出てきた。一本、二本。三本目で数えるのをやめた。先が椅子の背に触れて、こつ、と鳴った。その音は画面の中ではなく、ミラの背骨のすぐ裏で鳴った。
息が、肺の上の方で止まった。助けて、と打てば誰かが見る。見られたまま、この続きが起きる。
影なら、光で消える。
机のライトの首をつかんで、背後の壁へ向けた。
光が壁を横切った。影は、一歩も引かなかった。
足の裏から、床がなくなった。
水の底で、あたしは数えている。
ひい、ふう、みい。
数えていないと、自分がどこにいるのか分からなくなる。底の水には朝も夜もなくて、重いだけで温度がない。眠れないから、舟に乗る客の頭を数えたのと同じ声で数える。何を数えているのかは、とうに忘れた。
頭の上の、水の天井の向こうで、いつも拍が鳴っている。二つずつ。二つ目が、いつも少し遅れる。遅れている方を、あたしは自分の音だと思うことにしていた。
少し前に、上から名前が一つ落ちてきた。
クロ。
語尾が、水に落とした糸みたいに揺れる声だった。舟着き場の子どもも、拾った猫にはまず名前をつけた。つけたら最後、川へは流せなくなると知っているくせに。
名前が落ちたあたりで、天井が薄くなった。そこだけ、水が浅い。上の拍が速くなるたびに、猫の形になりきれていない黒い霧が膨らんでいく。腹を空かせた舟着き場の猫と、同じ膨らみ方だった。
その拍が、天井の薄いところを抜けて下りてきた。
女の子だった。
膝まである灰色の上着の裾と、ほどけた銀の髪が、暗い水の中でゆっくり広がる。手を伸ばせば届くところで、その目が開いた。
目が合った。
見開かれていく目は、あたしと同じくらい驚いていた。
ひい、ふう。
数が、そこで止まった。
黒い霧が、女の子の襟首をくわえた。母猫が子猫を運ぶときの持ち方で、上へ引いていく。目が遠ざかる。最後まで、こちらを見ていた。
みい、の続きが、出てこなかった。
床に、吐き出された。
四つん這いのまま、息を吸った。カーペットの毛の一本一本が、手のひらに刺さる。服は、どこも濡れていない。濡れていないことの方が、ずっと気持ち悪かった。
暗い水の中の二つの目が、まだまぶたの裏にあった。
配信は、続いていた。同接は四桁になっている。画面の隅の時刻を見ると、落ちてから四分たっていた。
『消えた』『椅子だけ』『床の黒いの縮んでる』『食ってる?』『戻った』『手、映った』
自分のいなかった四分が、画面の下に積もっていた。いつもの六人の名前を探した。流れの速さに、一つも見つけられない。さっきまで狭くなかった部屋が、知らない人で埋まっていた。
棚の上ではクロが前足に顎をのせ、ティッシュの箱からはみ出した一枚を片目で見ている。目の赤が、さっきより薄い。
最後に、『こんばんは』の人が打った。
『今日は、もう休んでください』
視聴者の一覧から、あの名前は消えていた。四桁の数字の末尾が、一つだけ減っていた。
ミラは配信を切った。
布団まで行くには、棚の前を通らなければならない。
一歩、近づいた。心臓が跳ねる。床の影の先が、ミラの爪先の方へ、指一本ぶん伸びた。
止まった。影も、止まった。
もう一度、心臓が跳ねた。影が、また伸びた。
怖いと、伸びる。
二百九十八の半分、百四十九。三百八十の半分、百九十。口の中で数えると、影の先は止まった。けれど、引いてはいかなかった。
手を伸ばして机のライトを消し、布団にもぐると、棚から何かが降りてくる音がした。膝の上に、重さが乗る。
クロだった。
動けない。見た目より、ずっと重かった。片手に乗りそうな体に、何かがぎっしり詰まっている重さ。こわばった膝の分だけ、暗い床で影がまた少し伸びた気がした。四百二十の半分。五百十の半分。ミラは値段を数え続けた。
あの水の中の目は、誰だったのか。
もう一度見たいのか、二度と見たくないのか、決められない。
スマホを開くと、アーカイブのいちばん上に、今夜の『こんばんは』が残っていた。入力欄に、指を置く。
『こ』
その先が、打てなかった。こんばんは、なのか。こわかった、なのか。打った自分にも分からない。一文字を消して、画面を伏せた。
眠りに落ちる手前で、誰かが小さく数を数えていた。ひい、ふう、みい。
自分の声ではなかった。




