七.眼差しの温度
「……誰でも出来た、ということならば、彼女を拘束する理由もないだろう。毒への対処は、母后が妃嬪教育の一環で教えたと、確認は取れている」
低くよく通る声でそう告げたのは、皇太子・蘇 直謙だった。
思いがけない人物の登場に、影廠の宦官たちは一斉に席を立ち、その場で跪いた。玲穎はポカンと口を開け、突如闖入してきた夫の姿を見上げる。
礼を失した彼女の反応に構うこともなく、直謙はいつも通りの生真面目な表情で続けた。
「その辺で良いだろう。朱妃も疲れている。……かような執拗な取り調べは、お前たちの主である、陛下の指示によるものか? 少なくとも、私は把握していないぞ」
次期皇帝の位が内定している皇太子の重々しい言葉に、影廠の取調官たちは不承不承に頷く。彼らは玲穎に慇懃に詫び、大人しく去って行った。
急な展開に戸惑い、玲穎はじっと彼を見上げることしか出来ない。溜め息をついた春海が椅子を整え、完璧な角度で頭を下げるのを見て、彼女はようやく我に返った。
「……で、殿下。大変失礼を……」
「気にするな。──疲れているだろうに、すまない。少し、話をさせてくれないか」
思いがけず柔らかな声に乞われ、玲穎はおどおどとしながら席を勧める。彼は疲れたように長椅子に腰を下ろし、いつかのように彼女を隣に誘った。
おっかなびっくり席についた彼女をチラリと見遣り、春海が、抜かりなく手配していた茶を恭しく皇太子に差し出した。
茶で軽く唇を湿らせ、皇太子はじっと宙の一点を見据えながら口を開く。
「……佳夕を救ってくれたこと、礼を言う。そなたの処置が適切であったからこそ、彼女は無事だったと、医官たちも申していた」
「もったいないお言葉です……」
恐縮しながら長身を縮こまらせる彼女を振り返り、皇太子は苦笑を浮かべる。そのまま彼は右手を伸ばし、玲穎のほっそりとした両手をそっと持ち上げた。
夫の大きな手のひらは、かすかにかさついていて、体温が高い。手のひらが所々硬くなっているのは、剣や乗馬の稽古の賜物だろうか。
彼の側妻となって三年。季節ごとに一度、夜を共にしてきたが、こうして手を握り合うことなどほとんどなかった。つきりと痛む胸を騙しながら、玲穎はそっと目を伏せる。
皇太子は骨張った指で、玲穎の指をゆっくりとなぞった。その動きが不規則なのは、彼女の手のあちこちに残る、歯型や傷跡を辿っているせいだろう。それは、毒を吐かせようと必死になった際、苦しんだ藩妃に噛み付かれ、引っかかれた痕だった。
ぎこちない指の動きに耐え兼ねるように、玲穎は伏せていた目をそっと開いた。すると、想像以上に近くにあった夫の双眸に、彼女の頬はかっと赤く染まる。
玲穎の様子にかすかな笑みを浮かべ、夫である直謙は、室内を見渡して目を細めた。
「……そなたは、書物が好きなのだな」
「あ……」
彼の目線の先には、玲穎が私室のあちこちに積み上げた、大量の書物があった。
読書好きなのは知られていただろうが、実際に集めたものを見られ、玲穎はひどく狼狽した。前回も、彼女を「学を好む才女」と評してくれたが、夫の鵜呑みにして良いものかは判断がつかない。
この国では、女性が目を通すべき書物は、女訓書と琴棋書画の教本だけだとする風潮が根強い。玲穎の知る夫も、それを至極当然と信じている人物だった。実家の父や、年の離れた義兄たちも、玲穎が愚にもつかない雑多な書物に興味を示すと、酷く怒り、あるいは呆れ果てたと言わんばかりの目で見下ろしてきたものだ。
(こんな私を褒めてくれたのは、母様だけだった……)
背中を丸める玲穎の姿に、皇太子の指に力がこもる。ビクリと身を竦ませると、彼は困惑した様子で言い募った。
「先日も言ったが、責めているのではない。──いや、私の言葉に説得力がないのは、否定出来ないか。我ながら随分視野が狭かったものだと、反省している。そなたにも申し訳ないという、あの言葉も心底のものだ」
皇族、ましてや皇太子ともあろう人が、旧家出身とはいえ、妾の子に過ぎない彼女に詫びるなど。
それは、天変地異にも等しい出来事だ。
慌てふためく玲穎に、夫は寂しげに自嘲した。
「……きょうだいたちにしても、そうだ。思えば私はずっと、澄蘭を琴華と比べて、『どうしようもない奴だ』と軽視してきた。──だが、昨今の我が国と錚雲の関係性を見ていると、それが正しかったのか……疑問を抱かざるを得ない。三十余年、この世の真理のように信じていた全てが、絵空事だったように思えてならないのだ」
「殿下……」
目を見開く玲穎の顔を覗き込み、直謙は目を細める。
「そなたは、あれにどこか似ていると、常々感じていた。それ故にずっと、どう接して良いか分からなかった。……自分の常識が揺らぐのが、恐ろしかったのだろう。愚かなことだ」
片頬を歪める皇太子の姿はずいぶんと小さく見え、玲穎は慌てて首を振った。
自分が澄蘭公主と似ているなど、あまりに恐れ多い。また、後宮内の調査を命じた彼の期待に応えらられず、こんな事件が起こってしまったことを、玲穎自身後ろめたく思っていた。
玲穎は沈鬱な表情になり、か細い声で言う。
「とんでもないことでございます……。私こそ、殿下のご命令に応えられず……。何も情報をお伝え出来ぬまま、このようなことになってしまい……」
「それは気にするな。無理をするなと言っただろう。──だが、そなたの協力を得られると助かるのも事実だ」
彼女の手を握る指に力をこめ、皇太子は玲穎の目を真っ直ぐに見つめた。理知的なその瞳に吸い込まれそうになる玲穎に、彼は穏やかな声で語り掛ける。
「あのあと、佳夕の部屋から、明珠に届けられたのと同じ文が見付かった。いつからそこにあったのか、侍女たちもまるで気付かなかったと言っている。……改めて頼む。誰がこのようなことを企てたのか、調べる手伝いをしてほしい」
頼む。
真摯なその声に、玲穎はわずかに目線を逸らして俯いた。その姿に何を感じたのか──。直謙は目を瞬かせていたが、やがて何かに気付いたように口を噤む。
しばしの逡巡の後、彼は玲穎にそっと耳打ちをした。
「そんな場合でないのは、重々承知の上だ。今更だという自覚もある。……だが、今宵、そなたの寝所を訪ねても良いだろうか」
弾かれたように、玲穎は顔を上げた。間近に触れ合った彼の体温は高く、握られた指先がかすかに汗ばむ。
玲穎が彼に嫁いで三年、決して頻繁とは言えないものの、それでも夜を共にした回数は片手ではとても足りない。それなのに彼は今、まるで初めて妻の閨を訪ねる時のように緊張して見えた。
直謙は理知的な瞳を照れくさそうに伏せ、どこか言い訳をするように言葉を紡ぐ。
「私はずっと、皇太子としての立場を固めることを最優先にしてきた。まだ間に合うのなら、これまで顧みずにいた存在に、今一度、真剣に向き合わなければならないと感じている。──許してくれるか、玲穎」
ドキリと、玲穎の鼓動が跳ねた。
(名前……、初めて、呼んでくださった)
嬉しいはずなのに、心が痛むのは何故だろうか。玲穎は唇を噛む。
申し訳程度の情を掛けられ、捨て置かれてきた日々に対する葛藤だろうか。
侍女に軽視され、見知らぬ女官にすら嘲笑される屈辱に耐えた夜への憐れみだろうか。
或いは、今後伽を行えるほどに回復出来るのかも分からぬ、明珠や佳夕への後ろめたさだろうか。
直謙は辛抱強く、玲穎の言葉を待っている。その真っ直ぐな視線に押され、玲穎は自身でも気付かぬうちに、ゆっくりと頷いていた。




