八.秘めた夜
※男女の行為を間接的に表現するシーンが含まれます。苦手な方はお戻りください。
皇太子が二刻後の訪いを約束して、去って行った後。
一部始終を見ていた侍女の春海は、煮え切らない玲穎の尻を容赦なく叩いて、伽の準備にとりかかった。
夜着に直謙の好みだという香を焚き染め、端女に命じて寝室を隅々まで磨き上げる傍ら、玲穎を湯殿に押し込む。ぼんやりとしている玲穎の、頭の先から足指までを丹念に洗い上げた後、春海は彼女の髪に高級な椿油を塗り込んだ。艶を増した髪を、火鉢と扇で急いで乾かす侍女に、玲穎は戸惑いながら声を掛ける。
「あの、春海。この内衣……、薄すぎない……? 肌が……」
「言う通りになさってください。こうしたものも、雰囲気作りに必要なのです。……お召し換えは終わりましたね? それでは、鏡の前へ。寝化粧を整えましょう」
「夕餉は……?」
空腹に耐えかね、恐る恐る申し出る玲穎に盛大に溜め息を吐き、春海は髪を乾かす手に力を込めて言った。
「包子か何かを運ばせます。今は、身支度が最優先です」
「……分かった」
筆頭侍女の剣幕に押され、玲穎は身体を小さくせざるを得なかった。
その日の晩、約束通りの刻限に蒼花殿を訪ねてきた直謙は、どこか気恥ずかしさを隠せない様子だった。
その空気は見る間に、玲穎にも伝染していく。二人はまるで、これが初めての夜であるかのように押し黙ってしまった。
(今頃、帳の向こうにいる敬事署の宦官が、やきもきしていそうね……)
後宮で行われる秘戯である以上、伽を管理する宦官の同席を拒むことは出来なかった。彼らは皇統の正当性を死守するため、いつ、どこで、誰が、至高の存在やその後継者に抱かれたのか、公的に記録する義務がある。
誰かの耳目のある中で、そうした行為に及ぶことに、玲穎はいつまで経っても慣れることが出来ない。居た堪れなさから思わず遠い目をした玲穎の頬に、直謙が不意に、武張った手のひらを滑らせた。
思わず目を瞠る彼女に、夫は掠れたような声で言った。
「……玲穎。私を、見ろ」
漆黒の闇の中でも強く輝く直謙の瞳に、玲穎は吸い込まれそうな恐怖を抱く。それに気付いているのかいないのか、やがて直謙は逞しい腕を伸ばし、玲穎の身体をそっと寝台に横たえた。そのまま、大きな影がゆっくりと覆い被さってくる。
触れる吐息が、火傷しそうに熱い。これは、どちらの温度なのだろう。
重なる鼓動が早鐘を打つ。これは、どちらの心臓の音なのだろう。
(こんなの知らない。ずっとずっと、私たちの『夜』は、義務でしかなかった……)
今までそれは、「夜を共にした」という事実のためだけの、淡々とした味気ない行為に過ぎなかった。けれど今晩は、身体の隅々まで暴かれるような羞恥と心許なさと、──紛れもない悦びが彼女を襲う。
触れる手の温度に身体が震える。彼の真摯な眼差しが、言葉が、胸を過ぎる。
(怖い。──でも、……)
纏った夜着は気付けば剥ぎ取られ、熱を持った視線が痛いほどに突き刺さる。貪るような口付けの合間に、玲穎は必死に夫を呼んだ。
「……殿、下」
彼女の耳元で囁き返す夫の声も、かすかに上擦っている。
「『直謙』と。──玲穎」
「直謙……様、……ッ」
玲穎は為す術もなく翻弄され、経験したことのない感覚の波に飲み込まれていった。
その夜を境に、内廷の人々が彼の側妃に向ける目は少しずつ変化していった。
最も寵愛を受けていた潘 佳夕が毒に倒れて寝付き、江 明珠の回復も万全でない今、皇太子の関心は誰に向けられるのか。
下賎な好奇心を満たしたのは、「お飾りの側妃」と揶揄されてきた、朱 玲穎だった。ある日の晩に伽を行って以降、皇太子は今まで捨て置いてきた側妃に目を向けたようだ。その意外性に、物見高い人々は憶測話を繰り広げる。
──江妃よりも先に、朱妃は一時体調不良で寝込んでいた。実はあれも、毒による不調だったのではないか。だとすれば怪しいのは、未だ無事である皇太子妃・魯 愛凌ではないのか。
──否、夫の即位を間近にして、後宮での序列に不安を抱いた朱妃が、敵を弱らせ、あまつさえ排除しようと企んだのではないか。彼女の体調不良も、偶然か、仮病によるもの。次に狙われるのは、皇太子妃であろう。
根拠のない噂が、内廷だけではなく、外廷の官僚たちの間すらも飛び交うのを、直謙は敢えてそのままにしていた。
(周囲の監視の目があれば、下手人も動きにくくなる。緊張から、ぼろを出すこともあるだろう)
事件解決のためには寧ろ好都合と割り切り、直謙はじっと手元に目線を落とした。
それは江妃、潘妃の殿舎にいつの間にか投げ込まれていた脅迫文だ。のたうつような金釘文字と、濃さが不均衡な安物の墨、粗雑な紙。いずれも直謙に届けられた、即位を辞退するよう命じた文と共通している。
(愛凌が、心配だな……)
朱妃、江妃、潘妃と三人の側妃が狙われた今、次の標的となるのは皇太子妃ではないかと、言われるまでもなく理解していた。彼女の周囲には、直謙が手配した護衛が張り付いている。
そして同時に、それは監視の意味合いもあった。
(魯妃は生真面目だが……、それ故に、感情が昂ると制御が効かなくなる一面もある)
これまでの空白を埋めるように、直謙は数日おきに、玲穎のもとを訪ねていた。もちろん夜に限らず、公務の合間、他の妃の様子伺いのついでに、茶を共にするだけのこともあったが。
玲穎はいつも、どこか戸惑った様子で彼を迎える。これまでの冷遇ぶりを考えれば、それは致し方ないことだろう。聡明な彼女が、後宮に渦巻く無責任な憶測に気付いていないはずもない。
直謙とて、先日彼女に語ったのは紛れもない本心だったが、では玲穎に対して抱く気持ちが変化したのかと問われれば、断言しかねた。
これまで彼は、あまりにも朱妃のことを見ていなかった。読書好きな彼女を、「女の価値に乏しい側妃」と蔑むことはあれど、彼女自身を知ろうともしてこなかったのだ。
もっと彼女を知るべきだという思いが、直謙の足を蒼花殿に運ばせ、朱妃自身もそれを理解している。浮き足立つ周囲の中、彼女は一人、冷静だった。
玲穎自身もまた、全てを直謙に晒け出しているとは思えない。
周囲を圧するような冷たい美貌の奥底に隠した、臆病さと慎重さ。彼女は例えるならば、みっしりとした花弁の中に核を仕舞い込み、大切な部分を周囲からひた隠す、金鳳花や八重咲きの梔子のような女だ。少なくとも直謙の目には、そのように見えている。
これは、愛だの恋だのというものではない。皇太子として、夫として、彼女が秘めた「何か」を知らなくてはならない。そう直感しているのだ。
潘妃の事件から二旬ほどが経ち、冬月の半ばを過ぎると、間もなく雪がちらつくようになった。年が明ければ直謙の即位も目前で、処理すべき事案は際限なく増えていく。
机に山積みになった彼の決裁待ちの文書には、直謙が判断するまでもないような内容も含まれている。けれどこれは、「即位前一年と、少なくとも即位後三年は、可能な限りの案件に目を通せ」という、父帝の命によって持ち込まれたものだ。
時に苛立ちすら覚えるけれど、蔑ろには出来ない。
(一通り片付いたら、愛凌と、玲穎の様子を見に行くか)
後宮を騒がせる毒事件の犯人を突き止めるためにも、直謙は色濃い疲労の浮き出た頬を叩き、自身に気合を入れた。




