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九.疑心暗鬼の後宮

 落胆した様子の春海(しゅんかい)が茶碗を差し出し、玲穎(れいえい)は無言でそれを受け取った。寵を受ける機会が増えるにつれ、春海や秋月(しゅうげつ)などはソワソワしていたようだが、今月も寸分の狂いもなく、玲穎の身体には月のものが訪れた。


(健康な男女が同衾(どうきん)すれば、すぐに子を授かると考える人は多いけれど……。そんなに簡単なものでないはずだわ)


 皇太子である直謙(ちょくけん)が、二人の妻を相次いで迎えたのは十一年前。すぐに身篭(みごも)った(はん)妃に対して、()皇太子妃が子を産んだのは、それから三年近く経過してのことだった。その間まさか、魯妃が玲穎のように空閨(くうけい)をかこってきたわけではないだろう。

 全身にのしかかる重だるい痛みに耐えながら、玲穎は、ともすれば曲がりそうになる背中を懸命に伸ばす。今日もこれから、夫である直謙が顔を出すと、知らせを受けたばかりだった。


「……すまない。遅くなった」


 彼の名前を思い浮かべたそばから、夫が蒼花殿(そうかでん)に姿を見せた。玲穎は不器用に微笑み、彼に長椅子を(すす)める。疲れた様子の直謙が背凭(せもた)れに身体を預けるのを見守り、玲穎もおずおずとその右に腰を下ろした。

 こうして二人、並んで座ることにも、少しずつ慣れてきたように思う。互いに無言でほんやりしていると、不意に直謙が彼女の顔を(のぞ)き込んだ。


「顔色が(すぐ)れないな。大丈夫か?」


 自身も疲労困憊(ひろうこんぱい)といった面持ちであるにも関わらず、玲穎を案じる夫の態度に、彼女の心は何かに掴まれたような痛みを覚える。玲穎は小さく首を振り、夫の手に自身の指を添えた。その手は、驚くほどに冷たい。

 玲穎は彼の広い手の甲をさすって温めながら、ぎこちなく答えた。


「月の、(さわ)りで……。殿下こそ、お加減が悪いのではありませんか? お顔の色が……」

「そうか。……いや、私は寝不足なだけだ。即位の儀まであと二月を切ったが、考えるべきことがあまりにも多くてな。父皇(ちちうえ)はよくも、あのように涼しげなお顔で、これほどの無理難題を(さば)いておられたものだ」


 改めて、自分の不明に嫌気がさす。


 そう自嘲(じちょう)する夫の姿が痛々しくて、玲穎は思わず言葉を(つら)ねていた。


「そんな……。殿下も、非常に優秀であられると聞いております」


 たどたどしい玲穎の言葉に目を細め、直謙は彼女の手をぎゅっと握り込んだ。

 大きな手のひらは、少し()せただろうか。先日よりも骨の感覚が強くなったように思い、玲穎は顔を(うつむ)かせる。


 彼の心を(わずら)わせる問題の一つには、秋から続く、皇太子側妃の事件があるのだろう。次は()妃では──と目する周囲の予測に反し、その矛先は、幼気(いたいけ)な彼の子どもたちに向いた。


 まず被害に遭ったのは、魯妃の娘である、第一皇女の昭瓊(しょうけい)だった。ある日、五歳の少女の遊び道具に漆が塗られ、全身が赤くかぶれた皇女は泣き(わめ)いた。幸いにも肌に痕は残らなかったものの、魯妃は二人の子と共に、自殿に引き()もるようになってしまった。

 次に狙われたのは、(はん)妃の上の息子の第一皇子だ。ここ数年、小麦粉を口にすると激しい嘔吐(おうと)と腹痛、呼吸困難を起こす彼に、密かにそれらが使われた菓子が出されたという。その時は毒味係がすんでのところで気付き、事なきを得た。

 (こう)妃の娘の双子の女児も、沐浴(もくよく)用の湯が熱湯に差し替えられるという事態に見舞われた。こちらも乳母によって直前で防がれたが、毒の一件で心身が不安定になっていた明珠(めいじゅ)は、準備を担当した端女をひどく打擲(ちょうちゃく)したと聞く。


 今や、皇太子妃の住まう区画は、どす黒い疑心暗鬼に覆われ、かつてのような妃同士の華やかな交流も、すっかりなりを(ひそ)めていた。

 側妻だけならばいざ知らず、皇族の血に連なる子どもたちが標的にされたことで、影廠(えいしょう)宦官(かんがん)たちは大手を振って調査に乗り出してきた。夫に協力を頼まれていた玲穎も、うかつに出歩くことが出来ず、鬱々(うつうつ)と私室に閉じ篭もる日々を余儀(よぎ)なくされていた。


「申し訳ありません、殿下……。何もお役に立てず……」


 玲穎(れいえい)()びると、夫は無言で首を振り、彼女の肩に頭を持たせ掛ける。慣れない重みに戸惑いながら、玲穎は逡巡(しゅんじゅん)の末に彼の手を離し、そのまま彼の頭を()でた。冠から零れた、やや硬い真っ直ぐな髪は、心()しか輝きを失っているように見えた。

 直謙(ちょくけん)は冠を外し、より深く玲穎の肩に顔を(うず)めた。彼の愛用する清潔な香が、彼女の鼻腔(びこう)をくすぐる。


(こんなにもお疲れのご様子なんて、初めて見る……)


 彼の心を(むしば)むものを、自分に(やわ)らげることが出来るのだろうか。今もって夫をどう思えば良いか分からず、それは恐らく相手も同じだろう。それでも、疲れ切ったその姿は(いたわ)しく、何か出来ることがあればと思う。

 悩みつつも、玲穎は意を決して口を開いた。


「殿下。……先日、樹琉(きりゅう)皇子を皇太子妃の宮の一画で見掛けました」


 唐突な玲穎の言葉に、部屋の隅で空気のようにひっそりと(たたず)んでいた春海(しゅんかい)が、かすかに目を(みは)る。直謙も顔を上げ、驚いたように玲穎を見上げた。


「……従弟(きりゅう)を?」

「皇帝陛下へのご挨拶にいらした後、遠戚にあたる(しゅう)睿妃(えいひ)様のお顔を見に来られたと、伺いました。ただ、何故、縁者のいない皇太子妃の宮にまでいらしたのだろうと……。鍛え上げられたあのお姿を、そうそう見紛(みまが)うとも思えません」


 一歩間違えれば誣告(ぶこく)を行ったとして、皇族の品位を汚した罪に問われかねない。彼女が躊躇(ためら)った理由もそれだ。そんな玲穎の言葉に、春海があからさまに視線を泳がせる。それを()()けるように、真っ直ぐ夫の顔を見下ろす彼女に、直謙は真剣な目で(うなず)いた。


「よく告げてくれた。……案ずるな。そなたの証言であることは秘匿(ひとく)する。そなたは、私が守る」

「殿下……」


 頼もしいその言葉にどう反応すべきか戸惑っていると、直謙は不意に姿勢を正し、彼女に手を伸ばしてきた。温もりを取り戻しつつある大きな手のひらが、玲穎の頬をそっと覆う。距離の近さに玲穎が狼狽(ろうばい)していると、直謙はかすかに笑みを零した。

 普段、生真面目に引き結ばれた口元が(ほころ)び、整った顔がゆっくりと近付いてくる。思わず玲穎が目を(つむ)ると、空気が震える気配と共に、柔らかな唇が彼女の額に触れた。

 目を(またた)かせる玲穎に、ともすれば冷たく見える夫の三白眼が、穏やかに細められる。


「……続きは、また夜に。しばらくは辛抱せねばならんな」


 その目に宿る光に、玲穎は何も言えずに彼を見上げた。

 直謙は所在なさげな彼女の手を引き、今度はその甲にゆっくりと唇を落とす。そして次の瞬間には、背筋を伸ばして冠を頭に載せ直し、さっと手を離して立ち上がった。

 堂々とした(たくま)しい背中が部屋を出て行くのを、玲穎はただ無言で見送った。







「──どういうおつもりですか、玲穎(れいえい)様」


 険しい表情の春海(しゅんかい)が、修羅(しゅら)のような目付きでこちらを睨んでくる。玲穎は冷ややかな目で彼女を(にら)み返し、いつになく凍えた声音で答えた。


「……見たままを伝えただけよ」

「玲穎様!」


 声を荒らげる筆頭侍女に構わず、玲穎は自身の両手にじっと目線を落とす。

 夫の手を温めようとした左手、彼が唇を落とした右手を食い入るように見つめ、玲穎は無言でその場に(たたず)んでいた。


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