十.義兄妹の会話
「……お義兄様。少しよろしい?」
鈴を転がすような声に扉の向こうから呼びかけられ、直謙はおもむろに目線を上げた。彼の意を察した近侍が扉に走り、恭しい手付きで引き開ける。
そこに立っていたのは直謙の予想通り、義妹の琴華だった。彼女は舞で鍛えた身体で、姿勢よくその場に立っていたが、扉が開くやいなや当然のように部屋に踏み入ってくる。戸惑う近侍には構わず、直謙は手元の書類に筆を走らせながら、彼女を迎えた。
「……何用だ」
彼はいつも通り、余裕に満ちた声を出したつもりだった。だが、舞や楽の天才である義妹の耳は騙せなかったようだ。琴華は露骨に顔を顰め、机に積み上げられた書類に埋もれそうになっている直謙を、呆れたように見下ろす。
「……ちょっと義兄様、何日寝ていらっしゃらないの? そんなんじゃ、即位式の前に倒れるわよ」
「生憎、それほどやわな身体ではない。それに、これぐらい涼しい顔で片付けられなければ、父皇の後は継げない」
淡々と返す直謙に、琴華は大袈裟に肩を竦めて溜め息を零した。美しく結い上げられた髪にさした簪が軽やかに鳴り、白磁の耳を飾る宝石が火鉢の炎を弾いて煌めく。
琴華は眉間に皺を寄せながら腕を組み、膨大な書簡や巻子に一心不乱に筆を走らせる直謙を見つめて言った。
「……近頃、ずいぶん朱妃と仲良くしているようね。女官たちが騒いでいるわ」
「ほう。彼女たちが穏翊ではなく、私のことを噂するとは珍しい。……自分の妻を訪ねることに、何か問題があるか?」
しばし、二人は無表情で目線を交わすが、やがて琴華が腕組みを解いて笑った。
「……いいえ。夫婦仲が良いのは、素晴らしいことね」
飄々と言ってのける琴華を上目に見上げ、直謙はようやく筆を置いた。確認を終えた書簡を一抱え、近侍に持たせ、関係各署に届けるように命じる。彼は主人とその義妹の間で視線を彷徨わせたが、やがて無言で頭を下げて部屋を出て行った。
直謙はわずかに表情を緩め、椅子の背凭れに体を預けた。
「──心配するな。あの時のようなことは起こらない」
琴華が驚いたように目を見開く。凝視するような強い視線を受けて、直謙はそっと瞼を伏せた。
八年前、彼と第二皇子・穏翊は、父帝の指示により、とある家の父子の生命を奪った。温の家名を持つ彼らが、難攻不落と思われていた隣国・錚雲との交易再開を成し遂げたことが契機だった。
彼ら自身はあくまで、謙虚かつ冷静だった。だが、長年の飢えと将来の食糧不安に悩んでいた民は、彼らを「救世主」と呼び、熱狂した。その反応を危惧した父帝は、温父子を早い段階で排除することを決めたのだった。
実際に行動したのは、直謙と穏翊だ。そして彼らはその際、後宮で孤立していた義妹・澄蘭を利用した。
だが、澄蘭は彼らの想定外の胆力と知識で、窮地を脱した。そしてそのまま何も言わず、錚雲に嫁いでいった。
あの時何が起こっていたか、琴華は知らないはずだ。それでも当時、今まで疎遠にしていた義妹に急に近づいた実兄・穏翊を、不信に思ったのだろう。そして澄蘭が隣国へ赴いて以降、彼の様子は誰の目にも明らかなほどおかしくなっている。
そんな状況で、表向きの説明を素直に受け止めるほど、琴華は愚かな人間ではない。彼女はきょうだいの中で誰よりも、澄蘭を敬愛していた。それは遠く離れた今も変わらない。
そして、今の直謙の行動は、あの時の穏翊を思わせるものだろう。彼女が警戒するのも当然だった。
義兄の言葉を鵜呑みにして良いものかと、琴華は常の軽快な親しみやすさを消し去り、じっとこちらを観察している。その目の強さ、冷徹さは紛れもなく、父・冽然の血を濃く思わせるものだった。
直謙もまた、同じ色の瞳で義妹を見上げる。
触れれば切れそうな沈黙を破ったのは、大輪の華を思わせる美貌をかすかに緩めた琴華だった。
「……信じているわよ、お義兄様」
ヒラヒラと片手を振って、彼女は優雅に踵を返す。直謙はふと眉根を寄せ、義妹の背中を呼び止めた。
「私の即位の儀に、錚雲からはカルティク王と澄蘭側妃が参加すると、正式に返答があった。……穏翊を頼むぞ」
琴華は振り向き、驚いたように瞬きをする。
いつも通りの無表情な顰めっ面で彼女を見上げる直謙に、琴華はわずかに逡巡した後、しっかりと頷いてみせた。




