十一.喪失の痛み、凍える涙
※男女の行為を間接的に表現するシーンが含まれます。苦手な方はお戻りください。
褥にぐったりと身体を投げ出し、忙しない呼吸を繰り返す玲穎を、荒く息をついた直謙が強く抱き寄せる。
真冬にも関わらず、二人の全身はしっとりと汗ばんでいた。乱れた呼吸音が響く部屋には今も、濃厚な夜の気配が漂っている。玲穎は浮かない表情で、夫の逞しい腕に身を委ねた。
その日の朝、長く療養していた皇太子側妃・潘 佳夕の宿下りが、正式に通達された。
神経毒に侵された彼女の左腕には、重篤な麻痺が残ってしまった。気丈な彼女は妖艶な美貌を凛と上向かせていたが、その心労は重く、ついに床を離れることは出来なかった。「このままでは妃嬪としての役目を果たせない」と、彼女自身が退宮を申し出たそうだ。
直謙は、彼女の意向を汲んだ。このまま離縁はせず、自身の即位後、彼女の身分を定員のない下級妃・柔人の地位に置くことを約束して、彼女を実家に返したのだった。
十歳と三歳の二人の皇子は、直謙の実母・趙皇后が引き取ることになった。直謙の即位後は、二人は央廷の太上皇・皇太后宮で養育されることになる。
胸に渦巻く複雑な思いから目を逸らそうとするように、その晩、玲穎と直謙はがむしゃらに互いを求めた。何も出来なかった無力感と、守りきれなかった後悔。二人を推し潰そうとするそれらから、互いを遠ざけるように、必死に相手に手を伸ばした。
嵐のようなひと時が過ぎ、寝台には今なお、爛れたような空気が残っている。しばらく玲穎の肩口に顔を埋めていた直謙は、やがてポツリと呟いた。
「……すまない、無理をさせた。身体は大丈夫か?」
「いえ……」
その声には、いつもの張りも甘さもない。けれど、こんな時であっても彼女を気遣う夫の言葉の優しさに、玲穎はぎゅっと目を瞑った。自らも腕を伸ばし、彼の背中をきつく抱き締める。
直謙と佳夕がどんな夫婦であったのか、玲穎も全てを知っているわけではない。
けれど、十一年も寄り添った二人の間に、何の絆も生まれなかったとは思えない。ひとたび向き合うと決めたら、これほどの情を捧げてくれる真面目な夫であるのなら、なおのことだ。彼の心痛は察して余りある。
側妃たちの毒殺未遂、及び皇子・皇女の暗殺未遂の調査は、完全に影廠の手に移り、直謙であっても掌握することは難しいようだ。玲穎も日常生活の至る所で、冷たい視線を感じている。同じく見張りを受けている侍女の春海たちも、息苦しそうな表情を見せていた。
影廠は、皇帝の暗器だ。玲穎が目撃した皇帝の甥・樹琉皇子がどうなるか、想像もつかないものの、彼らが本格的に動き出したのならば、解決は遠くない。
腊月に入り、年越しを月末に控え、直謙は繁忙の極みを迎えた。公務や新年行事の準備と並行して、即位式の打ち合わせをこなし、式の後の祝宴の差配すらも彼に伺いが入る。今宵、玲穎のもとを訪れる直前まで、彼は官僚との打ち合わせや書類の確認に追われていた。
そして、彼の即位が秒読みとなった今、新たに後宮入りする娘たちの選定も進められているはずだった。
(皇后には、魯妃様が内定している。江妃様は恐らく上級妃に……。皇帝陛下は、四人の妃様と六名の嬪を迎えるから、大部分は新たに入宮する方が担うでしょう)
自分はその時、どの立場に居るのだろうか。多くの美姫を迎え、彼は自分を覚えていてくれるだろうか。
旧家の妾腹の娘にすぎず、潘妃を後宮から失わせてしまった自分に、居場所はあるのだろうか。
(つい最近まで、顧みられないことが当たり前だったのに……)
凍える夜にこれほどの熱を与えられてしまい、いつしか玲穎は、離れがたさを感じるようになっていた。胸に去来する様々な感情が、彼女を極寒の大海に押し流そうとする。
縋るように夫の背に腕を回し、玲穎はきつく目を閉じた。あんなにも熱かった身体は、真冬の空気にあっという間に冷えてしまった。小さく身震いする彼女に、直謙が静かに声を掛ける。
「……玲穎。大丈夫か?」
労るような穏やかな声すらも、切ない。
玲穎は自分でも気付かぬうちに、震える声を零していた。
「直謙様。寒いです。寒くて、凍えてしまいそう……」
(──何を)
玲穎はハッと我に返ったが、その言葉を取り消すよりも、息を呑んだ直謙が身体を起こす方が早かった。
彼は驚いた表情で、玲穎の顔を覗き込む。
「……何故、泣いている?」
(泣いている……? 私が……?)
頭がぼんやりと痺れたようになり、玲穎は緩慢に目を瞬かせた。何か熱いものが目尻を伝うのを、彼女は他人事のように感じる。
夫はしばらく逡巡したように視線を彷徨わせていたが、やがて再び玲穎の裸身に覆い被さった。
「……寒いのならば、温めよう」
丁寧に手入れされた、夫の真っ直ぐな髪が肩口から滑り、玲穎の周囲に零れ落ちた。逞しい両腕が、玲穎の華奢な身体を力強く抱き締める。噛み付くように唇を重ねたのは、果たしてどちらからだったのか。
生真面目な皇太子はその日、「正妃以外の宮で夜を明かしてはならない」という後宮の不文律を、生まれて初めて破った。




