十二.それぞれの誤算
夜明け過ぎに夫を見送ったあと、玲穎は重い頭痛に苛まれていた。
病の兆候はなく、疲労が身体に出ているのだろう。玲穎はそのまま、寝室で一日を過ごすことにした。
寝台には今も、夫の体温が残っている気がする。玲穎は一人身体を丸め、深く息を吐いた。適当に羽織っただけの夜着が、寝返りを打つ度に崩れていく。はだけた肩口にのぞく雲雨の名残に、彼女はそっと指先を這わせた。
その脳裏を、様々な光景が駆け抜けていく。目まぐるしく変わる景色に、玲穎は思わず瞼を伏せ、唇を噛んだ。
最初に見えたのは、皇太子妃たちの姿だった。毒に倒れ、窶れきった明珠の暗い眼差し。血を吐いて地面に崩れ落ちた佳夕の、蒼白な顔。子を守るため、なりふり構わなくなった愛凌の険しい目付き。
次に見えたのは、寵愛を得られない玲穎に向けられた、春海の醒めた眼差しだった。覚悟の決まらない玲穎に対して吐かれた、数々の冷ややかな言葉。
景色は飛び、秋の夜に出席を余儀なくされた、皇族たちの集う宴に移る。その後、皇太子宮で見掛けた、夜宴で悪態を吐いていた一人の皇子の姿。
そのまま思い出すのは、毒に苦しむ側妃たちの元に届けられた、皺だらけの粗悪な文だ。そこに記された、『今すぐ皇太子の妻の座を退き、実家に帰れ。さもなくば、後悔する羽目になるぞ』という文言。
そして、最後に思い浮かべたのは、数ヶ月に一度、義務のように訪れて去って行く、夫の無関心な表情だった。けれど、彼はいつからかそれを悔やみ、やがて向けられ始めたのは、真剣な眼差し。
ある日を境に、淡白で重苦しい時間は、濃厚な夜と穏やかな昼に変わっていく。柔らかな笑顔。頬に触れる大きな手のひら。熱い吐息と共に紡がれる名前。
玲穎はきつく、自身の身体を抱き締める。
(こんなはずじゃなかった……。あの人に、心を許すつもりなんて)
「──玲穎様」
感情のない侍女の声に名を呼ばれ、玲穎はハッと息を詰めた。咄嗟に、「夫が来てくれたのでは」と期待してしまった自分が、心底嫌になる。
強ばる喉で玲穎が返事をすると、寝室の扉を開けた春海に続き、入室してきたのは意外な人物だった。
「琴華、公主様……」
慌てて身を起こそうとした玲穎を、麗しい公主はさっと制する。彼女が春海を振り返ると、筆頭侍女はかなり渋った末に踵を返し、大人しく部屋を出ていった。
玲穎は呆然と、その背を見送る。だが、白魚のような細い指が伸びてきて、崩れた夜着の襟元を直され、慌てて正気に返った。自分がどんな姿をしているのかを思い出し、飛び起きる。頬を赤らめる玲穎を見下ろして、琴華公主は小さく笑った。
「座っても良いかしら?」
猫のようにしなやかに手首を返し、公主は椅子を指し示す。玲穎は自分の非礼──公主を立たせたままだった──に気付き、今度は顔を青ざめさせた。
「もっ、申し訳ございません……!」
「謝らないで。朝早くから押し掛けたのは私だもの。……具合、良くないのね。こちらこそ申し訳なかったわ」
穏やかに答え、皇帝の愛娘にして貴族女性の憧れの淑女は、ニコリと笑って首を傾げた。
彼女は玲穎の顔を覗き込み、途端に表情を消す。冷ややかにも見える落ち着いた眼差しで、琴華公主は玲穎の耳元に囁いた。
「朝議のあと、お父様が影廠を集めると聞いたわ。お義兄様……直謙皇太子も、そこに呼ばれることでしょう」
玲穎は咄嗟に息を呑み、間近にある麗しい顔を見上げる。目が合うと彼女は大きく頷き、そのままの体勢で言葉を続けた。
「彼らは、私たちの従兄弟の樹琉を調べていたわ。……朱妃、貴女が彼を、皇太子妃の区画で見かけたのよね? ならば彼らが、どういった疑惑を樹琉に抱いてるか、分かるはず」
「あ……」
顔を強ばらせた玲穎に、琴華は真剣な声音で言った。
「──協力してちょうだい、朱妃。返答次第では、貴女の運命は大きく変わる」
今ならまだ、間に合う。
彼女の言葉が何を意味するのか理解出来ず、玲穎はただただその美しい人を見上げていた。
朝議の場はいつも通り、何が原因かも分からないようなことで紛糾していた。
きっかけは、些細なことだったように思う。
今年の税収の見通しと、来年度の予算の振り分け。年齢を理由に退任する高官の、後釜の人事。反抗的な動きを見せつつある南方の属国に対して、軍備の拡充を訴える一派と、宥和路線を崩すべきではないと主張する一派。
話題はそこから、父帝を現在の温厚路線へ転換させた遠因と見なされている、隣国・錚雲に流れて行った。
「錚雲など、かつての属国ではないか! それを、主賓席に通すなど……。陛下、殿下、どうかお考え直しを!」
「いつの時代の話をしている!? 隣合う国同士、助け合えることがあれば……と、陛下も仰ったではないか! 彼らの米が、我が国の民をどれほど救ったのか、もう忘れたのか!?」
食ってかかったのは、今も大礼国を至上の存在と信じて疑わない、旧家の集まり。反論したのは、今や父帝の最大の後ろ盾となった王家の派閥に属する、比較的若い官僚たちだ。直謙の母の趙家は、「利用出来るものはしていけば良い」という現実路線を貫いており、この言い争いも静観している。
言い争う官僚たちを、涼しい顔で受け流す父の横で、直謙は眠気から来る苛立ちを懸命に堪えていた。公務のわずかな合間にも身体を鍛え、まだまだ若いつもりでいたが、年が明ければ三十も半ばとなる。側妃の寝室で夜を明かしてしまい、込み上げて来る疲れには勝てなかった。
(そうした欲は、もう随分と落ち着いたつもりだったのだが。……いや、待て。国家の大事を決める朝堂で、私は何を考えている)
直謙は、周囲に気付かれないように手のひらに爪を立て、眠気を懸命に遠ざけた。
今日はこの後、父帝に呼ばれている。巷を騒がせる皇太子妃宮の事件について、影廠から報告があるとのことだ。
昨夜だけのことではなく、このところの無茶が祟り、直謙の思考は意識をしなければ、すぐにばらばらになってしまいそうになる。正気に戻ったそばから脳裏に浮かぶのは、昨夜、朱 玲穎の流した涙だった。
まるで透明な幕に包まれているかのように、茫漠として心を隠してきた彼女。その玲穎が初めて見せた、明確な感情。「寒い」と訴えた際の途方に暮れたような顔が、目に焼き付いて離れない。
それは恐らく、彼女が決して見せようとしない、最後の一面に関わっているのだろう。直謙自身、誰にも内密で一連の事件の調査を進めており、幾つか気になる情報を掴んでいた。影廠の報告次第では、彼も情報を明かさざるを得ない。
(こんなつもりでは、なかった──)
間もなく皇位に就くことが定められた皇太子として、父のそばで学び、長年の視野の狭さを改めたつもりだった。これまで見向きもしてこなかった、異なる価値観の者たちに向き合ってみようと。その筆頭が、今まで遠ざけてきた側妃だった、それだけだった。
それだけだった、はずなのに。
逢瀬を重ねる中、気付けばその存在が心から離れくなっていた。我を忘れるほどに掻き乱され、誰かの心の一番奥に触れてみたいと願う日が自分に訪れるなど、考えたこともなかった。
ふと視線を感じ、直謙は慌てて顔を上げた。年齢を経てもなお、氷のような鋭さを宿した父の目が、ひっそりと彼の顔に向けられている。「朝議に集中しろ」、そう見えぬ声に叱咤された気がして、直謙は喚き合う官僚たちに向き直った。
夜明けと共に始まった朝議は、間もなく一刻半を過ぎようとしていた。まずはこれを鎮めなければ、何も始められない。直謙はぐっと腹筋に力を入れた。




