六.悪夢、みたび
その日は冬の入り口である良月にしては珍しく、暖かな日だった。
透き通るような黄酒で満たした盃を手に、皇太子妃・魯 愛凌は疲れたような深い溜め息を零した。今年の新米で作ったばかりの上等な醸造酒も、神経質な皇太子妃の気持ちを慰める力には乏しかったようだ。
そこは、皇太子妃に与えられた、橙璃殿の一室だった。先日の夜宴の反省会と慰労会の名目で、魯妃が側妃たちを呼び出したのだ。あくまで会の第一意義が「反省会」であるのが、生真面目な彼女らしいと玲穎は思う。
魯妃の対面で遠慮なく盃を干した潘 佳夕が、あの場で見聞きした話を面白おかしく口にした。
「まったく、樹琉皇子ときたら……」
「やめなさいよ、藩妃。でも、そういえば……」
魯妃は顔を顰めて彼女を咎めつつも、潘妃に乗る形で愚痴を零し始める。
普段から仲睦まじいとは言えないものの、同じ男の妻として十年以上の年月を共にしてきた二人は、こうした場では遠慮も躊躇いもない。賑やかな二人を、会話に混ざれない玲穎はぼんやりと見つめていた。
彼女の胸にあるのは、先日、思いがけず来訪した夫の言葉だ。
『後宮内で不審な動きをする者がいないか、誰があのような文を寄越したのか、調べてくれないだろうか』
(どうすれば良いんだろう……)
彼の期待に応えたい──、せっかく向けられた関心をふいにしたくないという気持ちも、間違いなくある。
けれど、では具体的にどうすれば良いのかと考えれば、方法はまるで思いつかない。
彼女は年上の妃二人を交互に見やりながら、憂鬱そうに盃を傾けていたが、潘妃が口にした名にふと手を止めた。
「ねぇ。江妃ったら、今日も欠席なの? ほんとに大丈夫? あの子」
思わず顔を上げた玲穎には気づかず、魯妃が酒に幾分緩んだ目を細め、潘妃に返す。
「ちゃんと、声は掛けたわよ。本人からも、『大分回復したから、ぜひ』と文が返ってきたけれど。……直前で具合が悪くなったのかしらね」
「ふうん」
気のない返事をして、潘妃は再び盃に唇をつけ、一息に飲み干した。艶めかしい白い喉を反らして酒を呷る彼女に、魯妃が「飲みすぎよ」と顔を顰める。藩妃は軽く、そんな彼女をあしらっている。
その時不意に、か細い女性の声が扉の前で響いた。
「……申し訳ございません。遅くなりました」
部屋の隅に控えていた魯妃の侍女が、慌てて扉に駆け寄る。壮麗な装飾扉を引き開け、──その侍女は、ぎくりと全身を強ばらせた。
そこに立っていたのは、玲穎の想像通り、江 明珠だった。
だが、玲穎たちが見知っている彼女とは、明らかに面変わりしていた。
若桃のようにふっくらとしていた頬は痩せて萎み、眼窩が落ち窪んで大きな目ばかりが目立つ。滑らかな象牙色だった肌は黄色くくすみ、絹糸のようだった黒髪もぱさついて見えた。
思わず息を飲んだ玲穎たちに、江妃は「双子たちがなかなか寝付かなくて」と苦笑してみせる。ぎこちなく頷いた魯妃が、彼女のために空けていた席に江妃を誘おうと腰を浮かした。
……その瞬間だった。
「ぐ……っ、うぅぅ……!」
──ガシャン!
くぐもった呻き声と共に、広間に陶器の割れる音が響き渡る。玲穎たちはハッと息を呑んで、音の出処を探して振り返った。
「……佳夕様!」
藩妃付きの侍女が、蒼白になって悲鳴を上げる。
つい先ほどまで、美味そうに醸造酒の盃を傾けていた潘側妃が、卓上の食器類をなぎ倒して床に倒れ込んだ。吐瀉物の饐えた臭いが、小部屋に広がる。
木の床に崩れ落ちた潘妃は、胎児のように身体を丸めて呻き始めた。蒼白になった唇から、ゴボリという嫌な音ともに、胃液混じりの血泡が噴き出す。彼女の鮮やかな蘇芳色の衣が、どす黒い血の色に染まるのを見て取り、玲穎はようやく自失から醒めた。
「……っ、潘妃様!」
玲穎は潘妃の身体に飛び付き、彼女の顔を無理矢理横向かせる。素早く卓の上に目を走らせ、無事だった水差しを掴んで、潘妃の口元に押し付けた。水を飲ませ、大きく開かれたままの口に指先を突っ込み、毒──この症状から見て、恐らく間違いない──を吐かせようと躍起になった。
その一方で玲穎は、立ち尽くす妃たちや侍女に、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「愛凌様、侍女に命じて、清潔な水と敷布をありったけ用意してください! ──早桃、何をしているの!? 早く医官を呼んで! 春海も彼女を手伝って! 手の空いている人は、部屋の換気を!」
鞭打つような玲穎の声に、硬直していた人々が一斉に動き出す。つかの間姿の見えなかった、玲穎の筆頭侍女・春海が慌てて姿を見せ、名指しされた潘妃の侍女・早桃を連れて、部屋をまろび出ていく。二人に続き、魯妃の命を受けた彼女の侍女が駆け出した。
扉以外、窓という窓が開け放たれ、初冬らしからぬ穏やかな風が部屋に吹き込んでくる。玲穎は、苦しさから反射的に歯を食いしばり、彼女の指ともども舌を噛み切りかねない潘妃の頬を懸命に押さえた。
皇太子妃たちによるささやかな宴が開かれるはずだった夜は、そうして更けていく。玲穎は額に滝のような汗を浮かべ、必死に解毒を試みる。
魯皇太子妃は恐怖に頬を引き攣らせ、江妃は顔を土気色に染め、全身を激しく痙攣させる潘妃を見下ろしていた。
その後、知らせを受けて部屋になだれ込んできた医官たちの手によって、潘妃は自室に運ばれた。
皇太子妃たちの私宴の会場は、彼らに続いて現れた影廠によって封鎖された。内廷の看守のような存在である彼らは早速、現場の調査を始め、玲穎たちは自分の宮に戻されることになった。
あまりにも激烈な潘妃の症状に、周囲は一時覚悟を固めた。だが、医官の懸命の治療の甲斐あって、彼女は何とか峠を越えたそうだ。予断は許さないものの、回復に向かい始めたとの報せが玲穎たちに齎されたのは、翌日の昼前の頃だった。
だが、吉報に安堵する間もない。あの場にいた皇太子妃たちはすぐさま、影廠の取り調べを受けることになった。
主催者であり、食事や酒の手配を行った魯妃に加え、潘妃が倒れた後に率先して対処した玲穎もまた、彼らの疑いを集めてしまった。蟄居を命じられていた玲穎の自室に現れた彼らは、筆頭侍女以外を下がらせ、言葉を変えながら何度も昨晩の出来事を問うてくる。丁重な口調ではあるものの、威圧感の漂う目で見据えられ、玲穎はすっかりしどろもどろになっていた。
「……貴女様の対処は、あまりにも迅速で適切でした。失礼ながら、どうしてあのように立ち回ることが出来たのでしょうか?」
丁寧な口調ではあるものの、明らかに疑惑を抱えた様子の取調官に、玲穎は目線を泳がせながら答える。
「あ、あの……、書物で読んだことがあって……。症状から毒の疑いを持ったので、とにかく水を飲ませて少しでも薄めなくては、吐き出させなくては、と……」
「ほう? どうして、毒だと?」
「それは……」
直感だと言う他になく、玲穎は押し黙った。
あの場に江 明珠がいたのも、一因ではあると思う。潘妃の症状は、噂で聞いていた、彼女が毒に倒れた際の状況にそっくりだったと感じたのだ。玲穎は、藩妃の異変は毒によるものだと疑わなかった。
影廠の二位、副帥の地位にある取調官は、仮面のようにのっぺりとした顔に酷薄な笑みを浮かべ、玲穎を見つめている。
「その後の調べで、毒は酒の燗に含まれていたことが分かりました。ただ、あの酒は潘妃様自身がご用意されたものだそうですね。元から仕込まれていたのか、誰かが温める最中に混入したものか……。侍女たちも、慌ただしくて、誰が準備したかは不明だと。──いずれにしろ、熱酒を好まれるのは、潘妃様だけ」
「……狙いは、藩妃様だったと?」
「さあ。そうなのですか?」
宦官は蛇のような目を細め、嬲るように玲穎に問う。
その目付きに怯み、言葉に詰まった彼女を救ったのは、予想だにしない人物だった。




