五.皇族たちの宴
「……朱妃? どうしたの?」
鈴の音のような軽やかな声に名を呼ばれ、玲穎ははっと目を見開いた。
内廷の西側に位置する、皇帝の妻たる四妃の宮。その中でも一際豪奢な造りの朱香殿には、現帝の寵妃にして最上級妃・王雅妃が長年暮らしている。玲穎は今日、彼女の娘である琴華公主の部屋に、茶会に呼ばれていた。
玲穎に声を掛けたのは、その琴華公主である。
彼女は大きな杏仁型の瞳を瞬かせ、完璧に整った鼻筋、白磁のような頬という美貌に、不思議そうな色を浮かべている。外見だけではなく、その内面も「淑女の鑑」として多くの賞賛を集める彼女は、ごく自然な、案じるような目で玲穎を見ていた。
一方、彼女の隣でじっと玲穎を見つめているのは、皇太子側妃の潘妃だ。垂れ目に泣きぼくろが印象的な蠱惑的な美女で、雅妃の実家の派閥の一族として、琴華公主とも親しく付き合っている。
今日は玲穎の快気祝いとして、公主が主催してくれた茶会だった。
その席でぼんやりしているとはどういうつもりか──侍女の春海の冷たい視線を背中に感じ、玲穎は慌てて笑顔を取り繕った。
「申し訳ございません。少し、考えごとをしておりました」
「そう? もし体調が良くないのなら、遠慮せずに言うのよ」
さりげなくそう気遣い、琴華公主は茶菓子に向き直った。潘側妃が持ち込んだそれは、隣国・錚雲の伝統菓子だという。染みひとつないほっそりとした指先で菓子を摘み、嬉しそうに口に運ぶ皇帝の愛娘に、潘妃はゆったりと笑い掛けた。
「そういえば、来春の殿下の即位の儀には、隣国の国王が参列すると伺いましたわ。澄蘭も、ご同行なさるのでしょうか?」
彼女が口にしたその名前に、玲穎の鼓動がドキリと脈打つ。
玲穎の密かに憧れる存在、現帝の第二皇女・蘇 澄蘭。琴華と同い年の彼女は、七年前、錚雲に側妃として嫁いでいった。
もっとも、その降嫁には、今も疑問と疑惑がついて回っている。
彼女にはかつて、皇太子の暗殺未遂に関与した容疑が掛けられた。その事件の首謀者として、婚約者と彼の父が処刑され、彼女も皇太子位の簒奪を目論んだ疑いにより、長きに渡り投獄されていたのだ。
後に、その事件は婚約者の父の政敵が仕掛けた罠であると判明し、彼女たちの無実は確定した。けれども、未だ悲劇の皇女に疑いの目を向ける者は多い。
それでも、彼女は隣国で、母国との関係改善に奮闘している。互いの国の余剰品から始まった交易は、彼女の主導の元、文化や嗜好品に少しずつ裾野を広げていた。「生活の役にも立たない品など」としつこく嘯く輩もいるが、百余年の間、両国に燻り続けたわだかまりは、わずかながらの雪解けを迎えつつある。
女性ながらに難解な歴史書や算術書を愛読し、語学に秀で、豊かな感性でもって政治の場でも活躍する。それは、この国が推奨する「淑女」の姿からは程遠いけれど、玲穎にとっては眩い光のような存在だった。
鼓動を高鳴らせる玲穎の眼前で、琴華公主も表情を綻ばせている。彼女は茶菓子を見つめ、心底嬉しそうに笑って目を細めた。
「その予定だと聞いているわ。杏月が待ち遠しい。……貴女たちも、その頃には妃嬪になるのね」
頑張って。
屈託ないのないその言葉と笑顔に、このところ浮かない思いを抱えてきた玲穎の心は、わずかに励まされる思いだった。
良月の初めの新穀の宴にも、江 明珠は姿を見せなかった。
穏和な側妃の不在は、玲穎の心を殊更に重くしていた。
今年一年の収穫に感謝し、翌年の豊穣を願う神聖な儀式の後には、主だった皇族やその正妻も顔を出す、盛大な夜宴が開かれる。皇帝の妃嬪も勢揃いしており、普段こうした場に縁のない皇太子側妃も、「次代の妃嬪候補」として出席を余儀なくされていた。歳の近い、柔らかな雰囲気の彼女が近くに居れば、少しは緊張も収まっただろうに。
玲穎はひっそりと、夜宴の会場に目線を走らせた。
回廊の先にある小室に設えられた、螺鈿細工の卓には、皇帝夫妻が並んでいる。良月の夜は、雪こそ降らないものの乾いて冷え込み、赤々と炭を燃やす火鉢が傍らに置かれていた。
左に座した皇帝の側に並ぶのは、親王位にある皇族たち。皇太子の直謙と魯妃は、その最も近くに席を用意されている。その隣に、王雅妃の息子である第二皇子・穏翊とその正妃、崔媛儀の子の第三皇子・尚清と新妻。更に未婚の第四皇子、第五皇子、第六皇子と続く。この辺りからは回廊に並ぶ形で、端明帝の兄弟の子息、すなわち甥たちも顔を連ねていた。その筆頭が、先帝の第二皇子、蘇 樹琉だ。彼の父はかつて、端明帝と最後まで皇太子位を争ったと聞く。
夫の直謙も、武官と見紛うほどの鍛え上げられた体躯を誇る偉丈夫だが、樹琉はそれ以上だった。自信に満ち溢れ、野性的な外見が、どこか異彩を放っている。
(隣に座るお妃様が、ずいぶんと息苦しそう……)
玲穎は恐る恐る、その夫婦を見つめていた。
一方、皇后が座る右側に並ぶのは、琴華公主をはじめとする皇女たちだ。降嫁した姫君たちは、夫を伴っていない。その後には皇帝の妃嬪、四妃と六嬪が続き、皇太子の側妃である潘 佳夕と玲穎は、最も冷え込む末席に膳を用意されている。
絢爛豪華な宴の隅で、玲穎は圧倒されっぱなしだった。
国中の美姫の集まる後宮生まれの皇族たちは、いずれも多種多様な美形揃い。皇帝の妃嬪も当然、沈魚落雁の美女揃いで、旧家の妾の娘に過ぎない自分が、玲穎には何とも場違いな存在に思えて仕方がなかった。
回廊とは違い、暖かな小室では、艶やかに装った琴華公主が会話の中心となり、皇帝夫妻も笑顔を浮かべている。遠目に眺める夫の直謙は生真面目に応じ、魯妃は堅苦しく頷くばかりのようだった。
あれから、夫と顔を合わせることはなかったが、折に触れて、文や薬などが蒼花殿に届くようになった。直謙がふと、遠くに座る自身の側妃たちの方に目線を向けてきたため、玲穎は慌てて目線を逸らす。
そんな彼女の視界を、第二皇子の穏翊が掠めた。彼は豪華な膳には箸をつけず、正妃にも構わず一人酒を呷っている。女官を長年騒がせてきた美貌と優秀さは変わらないものの、目に見えて暗い影を帯びるようになり、酒に手を伸ばすことが増えたと噂されていた。
かすかな緊張を帯びつつも、和やかに進む宴会の空気を急速に凍らせたのは、端明帝の甥・樹琉が発した一言だった。
「……そういえば、従兄上。妃が一人、見当たらないようだが?」
賑やかだった宴の席が、水を打ったように静まり返る。樹琉は厚い唇をにやりと歪め、挑発するように直謙を見つめた。
直謙が冷ややかな目を従弟に向け、低い声で返した。
「残念ながら、体調を崩している。欠席は陛下もご了承の上だ」
だが、その言葉に勢いづいたように、樹琉はますます声を高くする。
「へえ! 体調不良。何が原因でしょうね? ……先日、不穏な噂を耳にしたんですよ。なんでも、従兄上の麗しき妃が毒を盛られ、今も体調不良に苦しんでいるとか」
「──樹琉」
鞭打つように鋭い声を発したのは、今上帝・冽然だった。彼は甥に目線すらやらず、自身の前に並べられた新米の蒸飯や、新鮮な鴨肉の焼き物を堪能しながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「つまらぬ噂話で、余の食事を妨げる気か?」
「……申し訳ございません」
豪放磊落な武骨者も、皇帝の怒りを買うことは得策ではないと考えたようだ。彼は素早く頭を下げ、端明帝は何事もなかったかのように食事を続けた。それを見てとった琴華公主が、さりげなく別の話題を皇后・趙氏にもちかけ、公主の母である王雅妃もにこやかに口を添える。
しんと冷え切った回廊の末席で、玲穎も恐る恐る目前の膳に箸を伸ばした。だが、彼女の敏感になった耳は、樹琉皇子の漏らした独り言を拾い上げてしまう。距離はあるものの、その時吹き抜けた風の流れの影響もあったのだろう。
「──蛮国に媚びる、無能が」
憎々しげな言葉だった。
八年前の交易再開以来、隣国・錚雲に対して、端明帝は少しずつ友好の道に舵を切った。属国としている他の国との均衡を図りつつ、かの国が持つ多様な農業技術を、自国に合う形で取り入れようとしている。その端緒を開いたのはやはり、隣国に嫁いだ彼の第二皇女・澄蘭公主だろう。
だが、かつて前王朝では宗主国と保護国の関係にあった隣国に対して、そのような路線を取ることを反対する層は、根強く存在する。樹琉皇子もどうやら、その一派のようだ。
知りたくもなかった情報に、玲穎は重い溜め息を零す。
贅を凝らした美食の数々が、砂を噛むように味気なく思えた。




