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四.資格と責務

 その後、取り留めもない話題をしばらく交わし、皇太子は微笑と共に部屋を去っていった。


 彼を曖昧な表情で見送った後、玲穎(れいえい)は、先ほどまで二人で腰掛けていた長椅子にへたり込む。ぐったりと背もたれに身を投げ出した彼女に、興奮した面持ちの侍女の春海(しゅんかい)が詰め寄ってきた。


「……玲穎様! これはまたとない好機ですよ!」

「何を言うの、春海」


 うんざりと彼女を見やる玲穎には構わず、春海は鼻息も荒く大声で言い募る。彼女の背後に控えた秋月(しゅうげつ)たちも、興奮冷めやらぬといった様子だった。

 だが、玲穎には、夫の訪れを喜ぶことなど出来そうになかった。

 彼がこの殿舎を尋ねてきたのは、側妃・明珠(めいじゅ)の毒殺未遂という、大きな事件を受けてのことだ。何より、嫁いでからの三年間、ほとんど玲穎を(かえり)みなかった夫の笑顔を、言葉を、無邪気に信じてしまって良いのだろうか。

 玲穎の憂鬱に気付く素振りもなく、春海は詰め寄ってきた。


(こう)妃は一命を取り留めたとはいえ、まだ当面、夜伽(よとぎ)など難しいでしょう。彼女と同じく、危険に(さら)された身として、上手く殿下の情と関心を引いて独占出来れば……」

「──いい加減にして!」


 突如声を荒らげた彼女に、春海(しゅんかい)(ひる)んだように押し黙る。玲穎(れいえい)はその場に立ち上がり、自身の筆頭侍女を険しい目で睨んだ。


「明珠様は一時、重篤な状態に陥られたのよ!? 私の毒味役の阿梅(あめい)だって、あの時の毒で身体を壊して、宮仕えが出来なくなった……! それなのに、そんな、こんな事件を、『好機』だなんて」


 込み上げる感情のままに言葉を紡いでいた玲穎はしかし、不意に息を詰めて顔を上げた。


 筆頭侍女の春海が、まるでどうしようもない愚か者を見下ろすような目で、主人の顔を見上げている。

 いや、「まるで」「ような」ではない。

 心底呆れ果てたと言わんばかりに、彼女の眼差しは凍え切っている。秋月も、司率局(しそつきょく)所属の侍女として蒼花殿(そうかでん)に派遣されてきた数名の女官たちも、春海と同じような目付きで、玲穎を遠巻きに見つめていた。


 春海は一切の表情を殺し、淡々と言葉を紡ぐ。


「……貴女様のそのお優しさ、善良さは、人としては好ましいものでしょう」


 顔を(しか)めながら彼女を見下ろす玲穎は、警戒の面持ちで自分の筆頭侍女を睨む。彼女は冷たく、その目線を受け止めた。


「けれど」


 氷のようなその声は、狼狽(うろた)える玲穎の心を情け容赦なく切り裂いていく。




「後宮に生きる妃としては、──失格です」




 玲穎はかすかに、息を呑んだ。













 冠をむしり取るように外し、乱暴な手つきで机に置いた。

 やや日焼けした精悍(せいかん)な顔を歪め、皇太子・() 直謙(ちょくけん)は大きなその手のひらで自身の顔を覆い、盛大に溜め息をついた。


 そこは央廷(おうてい)の一画にある、皇太子府の一室だった。他の兄弟とは違い、皇太子である彼だけは、冠礼(かんれい)を終えた後も、皇宮(こうぐう)に住まうことを許されている。案じるような面持ちの近侍(きんじ)を部屋から遠ざけ、椅子に崩れるように座り、直謙は自身の懐をぐしゃりと掴んだ。

 先ほど(しゅ)妃には、(こう)妃の殿舎に投げ込まれた文を見せた。だが、今そこにあるのは、それだけではない。




『即位を取り止め、継承権を手放せ。さもなくば、──』




 彼宛の脅迫文は、そこで止められていた。




 さもなくば、何だと言うのか──続く言葉を考えれば、悪い想像がとめどもなく溢れてくる。

 彼が皇太子に任じられて、もう何年が経過しただろうか。

 現帝の嫡子・嫡男として、直謙が父の後を継ぐのは、幼い頃からの既定路線だった。直謙も物心ついた時にはそれを意識し、その立場に恥じぬよう、彼なりに精進(しょうじん)してきたつもりだ。皇太子として長年、数え切れないほどの公務に、精力的に取り組んできた。周囲の見る目も、決して悪いものではなかったと思う。


 だが、それはあくまで、「公務の一端(いったん)」に過ぎなかったことを、今更になって痛感している。


 父から譲位の意向(いこう)を告げられて、一年近く。直謙は宰相(さいしょう)のもとで、父の仕事の全てを見て回った。

 間もなく五十を迎えるとは思えぬほどの壮健(そうけん)な父の肩に、背中にのしかかる責務の重さを間近で()の当たりにし、直謙の心に芽生えたのは、紛れもない恐怖だった。

 彼の判断のわずかな遅れ、微かな誤りで、何万、何十万という人間の生命がいとも容易(たやす)く失われる。自国だけではない。大陸の東の覇者(はしゃ)として、皇帝の言葉が他国に及ぼす影響は甚大(じんだい)だった。

 直謙はこれまでずっと、「伝統を(たっと)び、規則を遵守(じゅんしゅ)すれば、世界は安定する」と思っていた。他者にもそれを強要し、そうあることが当然だと信じていた。

 それが如何(いか)に幸せな思い込みであったか──三十三歳にして今、ようやく学んだのだった。

 面従腹背(めんじゅうふくはい)の臣下に、殊勝(しゅしょう)な顔の裏で私欲を満たする宦官(かんがん)。美麗な顔の下に、様々な思惑を隠す女性たち。

 ずっと父の(そば)で、それらを見てきたつもりだった。理解し、それでも父であれば、自分であればそれらを(じょ)せると、本気で信じていた。


(本当に、おめでたい人間だった……)


 あくまでもそれらは「つもり」であったことを、即位前に知ることが出来たのは、きっと幸いだったのだろう。

 世界はそんなに単純なものではなく、父が冷然とした佇まいの裏で、どれほど苦心してきたのか、この一年で嫌というほど痛感した。その日々は紛れもなく、父が示してくれた最大限の親心だろう。同時にそれは、この国に生きる民への、父の愛情でもあった。


(表向き、朝堂(ちょうどう)に集う官たちは、父の決断を歓迎していたように見えた。……だが、やはり、父皇(ちちうえ)の目は正しかったのだ)


 父の譲位を、彼の即位を快く思わない者がいる。否、それだけではなく、実際にそれを阻もうとする者が。


 直謙は一人、懊悩(おうのう)する。この件の始末は自分が付けると父に豪語(ごうご)したものの、「皇帝」の姿を誰よりも間近で見てきた身には、その責務は泥土(でいど)のように重くのしかかっていた。彼の判断のわずかな誤りで、直謙は人心を失い、官僚たちを失望させかねない。かといって、彼らの反応に遠慮して、事なかれ主義となるなど、()びるような真似も到底(とうてい)出来なかった。


 一人きりの部屋の中、直謙は静かに項垂(うなだ)れた。近頃、胸の中にはいつも、暗澹(あんたん)とした後悔と焦りが渦巻いている。


(事件の対応も重要だ。だが同時に、今まで軽視していたもの、見ようとしなかったものに、きちんと向き合わなければならない。……今更だと、虫が良すぎると、蔑まれても良い。まだ間に合うのなら、私はもっと、知らなくてはならない)


 彼は、先ほど顔を合わせた妃の姿を思い浮かべる。「実家の利用価値も、本人の価値も低い」と見なし、彼がずっと避けてきた存在。三年間で、あんなふうに言葉を交わしたのは、今日が初めてだった。

 けれど彼女は、直謙の妻だ。そして父帝が守る民の一人であり、やがて自分の守るべき民の一人となる。


 多忙を極める皇太子は、乱暴に髪をかき乱しながらも、ぐっと奥歯を噛み締めた。

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