表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

三.夫の来訪、妻の動揺

 きっかり半刻後、皇太子・() 直謙(ちょくけん)玲穎(れいえい)の住まう蒼花殿(そうかでん)へ渡ってきた。猛禽(もうきん)のような鋭い目に射抜かれ、玲穎は咄嗟(とっさ)に気圧されてしまう。数名の宦官(かんがん)を伴い、客間に足を踏み入れた彼を、玲穎たちは膝を折り両手を左腰に添える万福(ばんぷく)で迎えた。

 彼は鷹揚(おうよう)に「(おもて)を上げよ」と告げ、柔らかな布張りの長椅子に腰掛けた。しばしの逡巡(しゅんじゅん)の後、皇太子は気まずそうに、玲穎に声を掛ける。


「……隣に」


 空いた空間を指し示され、玲穎は目を白黒させた。背後に並ぶ春海(しゅんかい)秋月(しゅうげつ)が、はっと息を呑む。

 玲穎は戸惑い、その場に立ち(すぐ)んでいたが、真っ直ぐに彼女を見上げてきた皇太子の迫力に押され、おずおずと彼の隣に腰を下ろした。


(そうだわ。……こんなお顔をしてらしたのよね)


 横目でこっそりと彼の顔を見つめ、玲穎は内心独りごちる。

 どんよりとした雨に覆われているとはいえ、相手の顔が見えるこんな昼間に会うのは、ほとんど初めてのことだった。

 夜の暗がりではお互いの顔もろくに見えず、この三年間、何の感慨(かんがい)も感情も生まない行為を、皇太子も玲穎も義務的にこなしているだけ。互いの顔をまじまじと見るのも、下手をすればこれが初めてではないだろうか。

 謹厳実直(きんげんじっちょく)を絵に書いたような玲穎の夫は、現在三十三歳だ。文武に秀で、自身を鍛えることを好み、大軍の将だと言われても違和感のない、(たくま)しい身体つきをしている。冷ややかな威厳(いげん)(にじ)ませる三白眼気味の瞳にまず目がいってしまうが、実は顔立ちは母后(ぼこう)に似てすっきりと凛々(りり)しく、麗しい。美形で名を()せる第二皇子と並んでも、引けを取らないだろう。

 ぼんやりと夫を観察していた玲穎は、皇太子・直謙が不思議そうにこちらを見つめていることに、まるで気付いていなかった。


「……(しゅ)妃?」


 穏やかな低い声に名を呼ばれ、玲穎(れいえい)ははっと息を()む。慌てて頭を下げ、彼女は丁重に非礼を()びた。


「申し訳ございません。殿下のお言葉を聞き逃すなど……」

「そんなに(かしこ)まる必要はない。……そなたは、そんな顔立ちをしていたのだなと、感慨深く思っただけだ」


 その言葉は思いがけず柔らかで、玲穎は目を(しばたた)かせる。夫も、同じようなことを考えていたのか。そう思うと、何やら背中がむずむずとする感覚を覚えた。

 常に真一文字に引き結ばれている唇を微かに(ほころ)ばせ、直謙(ちょくけん)は玲穎の顔から目を()らした。宙の一点を見つめ、彼は小さな声で続ける。


(こう)妃の一件は、聞いているな?」

「はい。……あの、明珠(めいじゅ)様のお加減は」

「完全に落ち着いた。後遺症も……今のところはないだろうと」

「良かった……」


 心の底から溜め息をついた玲穎を無言で見下ろし、夫は不意に目を細めた。意図してのことか、わずかに鋭さを帯びた瞳に、玲穎は思わず小さく息を詰める。


「……そなたにも、毒が盛られたそうだな。明珠よりも前に」


 玲穎は、目を見開いた。


 誰にも気取られることのないよう、殿舎の全員で口裏を合わせて秘匿(ひとく)し、毒味役に(いとま)を出す口実にも留意した。だが、さすがに医官にかかるのに、皇太子に内密にとはいかなかったようだ。

 顔を青ざめさせる玲穎に、皇太子が苦笑気味に返す。


「責めているわけではない。大事ないのであれば、それで良い。……ただ、江妃のもとに、こんな投げ文が届いたそうだ。そなたは見覚えはないか?」


 武張(ぶば)った手が差し出したのは、(しわ)まみれの一枚の紙だった。それを認め、玲穎は思わず息を詰める。





『今すぐ皇太子の妻の座を退(しりぞ)き、実家に帰れ。さもなくば、後悔する羽目になるぞ』





 筆跡から書き手を探られぬようにという意図か、わざと乱雑に書き殴られた文字。悪意の塊のような色濃い墨痕(ぼっこん)に、玲穎(れいえい)は恐る恐る夫を見上げる。彼はじっと玲穎を見下ろし、かすかに首を(かし)げた。


「どうした? 朱妃」

「いえ……」


 曖昧に首を振る彼女を、皇太子はわずかに細めた目で観察している。

 だが、やがてしばしの沈黙を経て、彼は小さな溜め息と共に口を開いた。


「すまない。どうにも私が口を開くと、怖がらせてしまうようだな。……そなたは、学を好む才女だと聞いている。何か気付いたことはないかと、聞きたかっただけだ」


 取りなすような物言いに、玲穎は上擦(うわず)った声で答えた。


「お、恐れ多いことでございます……。私は、そのような」


 冷や汗をかきながら、玲穎は長身を縮こまらせる。

 夫である直謙(ちょくけん)は、伝統と規律を何より重んじ、与えられた役割を果たせない女性を(うと)んじる節があると、侍女たちが噂しているのを聞いたことがある。玲穎など足元にも及ばないほどの読書家であった、彼の義妹である澄蘭(ちょうらん)公主(こうしゅ)との仲も、お世辞にも良好とは言いがたかったそうだ。

 これは、「女でありながら、異国の書物に現を抜かすとは」という、叱責(しっせき)の裏返しだろうか。

 ただでさえ薄い寵が、完全に(つい)えてしまうのではと、玲穎は目の前が真っ暗になる思いだった。


 そんな彼女を驚いたように見つめ、直謙は不意に、その大きな手のひらを玲穎の頭に伸ばした。無骨な手が優しく、彼女の髪を()でる。

 完全に硬直した玲穎には気付かず、皇太子は気まずそうにはにかんだ。


「そう(おび)えてくれるな。他意はないのだ。……いや、無理もないか。私は今まで随分、そなたに不義理を働いてきた。偉大な父の後を継ぐためと、自分の足場を固めるのに必死だからと、自分に言い訳をして。その上、このような目に()わせてしまって……。本当に、すまないと思っている」


 驚きに目を(みは)玲穎(れいえい)に、直謙(ちょくけん)が思いがけず柔らかな笑みを向ける。彼はそっと玲穎の手を取り、真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んだ。


「そなたを見込んで、頼みがある。後宮内で不審な動きをする者がいないか、誰があのような文を寄越したのか、調べてくれないだろうか。……ただし、くれぐれも無理はするな。何より、そなたも病み上がりの身だ」

「殿下……」


 しばらく視線を彷徨(さまよ)わせていた玲穎だったが、その瞳の熱に圧され、やがて小さく頷かざるを得なかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ