三.夫の来訪、妻の動揺
きっかり半刻後、皇太子・蘇 直謙が玲穎の住まう蒼花殿へ渡ってきた。猛禽のような鋭い目に射抜かれ、玲穎は咄嗟に気圧されてしまう。数名の宦官を伴い、客間に足を踏み入れた彼を、玲穎たちは膝を折り両手を左腰に添える万福で迎えた。
彼は鷹揚に「面を上げよ」と告げ、柔らかな布張りの長椅子に腰掛けた。しばしの逡巡の後、皇太子は気まずそうに、玲穎に声を掛ける。
「……隣に」
空いた空間を指し示され、玲穎は目を白黒させた。背後に並ぶ春海や秋月が、はっと息を呑む。
玲穎は戸惑い、その場に立ち竦んでいたが、真っ直ぐに彼女を見上げてきた皇太子の迫力に押され、おずおずと彼の隣に腰を下ろした。
(そうだわ。……こんなお顔をしてらしたのよね)
横目でこっそりと彼の顔を見つめ、玲穎は内心独りごちる。
どんよりとした雨に覆われているとはいえ、相手の顔が見えるこんな昼間に会うのは、ほとんど初めてのことだった。
夜の暗がりではお互いの顔もろくに見えず、この三年間、何の感慨も感情も生まない行為を、皇太子も玲穎も義務的にこなしているだけ。互いの顔をまじまじと見るのも、下手をすればこれが初めてではないだろうか。
謹厳実直を絵に書いたような玲穎の夫は、現在三十三歳だ。文武に秀で、自身を鍛えることを好み、大軍の将だと言われても違和感のない、逞しい身体つきをしている。冷ややかな威厳を滲ませる三白眼気味の瞳にまず目がいってしまうが、実は顔立ちは母后に似てすっきりと凛々しく、麗しい。美形で名を馳せる第二皇子と並んでも、引けを取らないだろう。
ぼんやりと夫を観察していた玲穎は、皇太子・直謙が不思議そうにこちらを見つめていることに、まるで気付いていなかった。
「……朱妃?」
穏やかな低い声に名を呼ばれ、玲穎ははっと息を呑む。慌てて頭を下げ、彼女は丁重に非礼を詫びた。
「申し訳ございません。殿下のお言葉を聞き逃すなど……」
「そんなに畏まる必要はない。……そなたは、そんな顔立ちをしていたのだなと、感慨深く思っただけだ」
その言葉は思いがけず柔らかで、玲穎は目を瞬かせる。夫も、同じようなことを考えていたのか。そう思うと、何やら背中がむずむずとする感覚を覚えた。
常に真一文字に引き結ばれている唇を微かに綻ばせ、直謙は玲穎の顔から目を逸らした。宙の一点を見つめ、彼は小さな声で続ける。
「江妃の一件は、聞いているな?」
「はい。……あの、明珠様のお加減は」
「完全に落ち着いた。後遺症も……今のところはないだろうと」
「良かった……」
心の底から溜め息をついた玲穎を無言で見下ろし、夫は不意に目を細めた。意図してのことか、わずかに鋭さを帯びた瞳に、玲穎は思わず小さく息を詰める。
「……そなたにも、毒が盛られたそうだな。明珠よりも前に」
玲穎は、目を見開いた。
誰にも気取られることのないよう、殿舎の全員で口裏を合わせて秘匿し、毒味役に暇を出す口実にも留意した。だが、さすがに医官にかかるのに、皇太子に内密にとはいかなかったようだ。
顔を青ざめさせる玲穎に、皇太子が苦笑気味に返す。
「責めているわけではない。大事ないのであれば、それで良い。……ただ、江妃のもとに、こんな投げ文が届いたそうだ。そなたは見覚えはないか?」
武張った手が差し出したのは、皺まみれの一枚の紙だった。それを認め、玲穎は思わず息を詰める。
『今すぐ皇太子の妻の座を退き、実家に帰れ。さもなくば、後悔する羽目になるぞ』
筆跡から書き手を探られぬようにという意図か、わざと乱雑に書き殴られた文字。悪意の塊のような色濃い墨痕に、玲穎は恐る恐る夫を見上げる。彼はじっと玲穎を見下ろし、かすかに首を傾げた。
「どうした? 朱妃」
「いえ……」
曖昧に首を振る彼女を、皇太子はわずかに細めた目で観察している。
だが、やがてしばしの沈黙を経て、彼は小さな溜め息と共に口を開いた。
「すまない。どうにも私が口を開くと、怖がらせてしまうようだな。……そなたは、学を好む才女だと聞いている。何か気付いたことはないかと、聞きたかっただけだ」
取りなすような物言いに、玲穎は上擦った声で答えた。
「お、恐れ多いことでございます……。私は、そのような」
冷や汗をかきながら、玲穎は長身を縮こまらせる。
夫である直謙は、伝統と規律を何より重んじ、与えられた役割を果たせない女性を疎んじる節があると、侍女たちが噂しているのを聞いたことがある。玲穎など足元にも及ばないほどの読書家であった、彼の義妹である澄蘭公主との仲も、お世辞にも良好とは言いがたかったそうだ。
これは、「女でありながら、異国の書物に現を抜かすとは」という、叱責の裏返しだろうか。
ただでさえ薄い寵が、完全に潰えてしまうのではと、玲穎は目の前が真っ暗になる思いだった。
そんな彼女を驚いたように見つめ、直謙は不意に、その大きな手のひらを玲穎の頭に伸ばした。無骨な手が優しく、彼女の髪を撫でる。
完全に硬直した玲穎には気付かず、皇太子は気まずそうにはにかんだ。
「そう怯えてくれるな。他意はないのだ。……いや、無理もないか。私は今まで随分、そなたに不義理を働いてきた。偉大な父の後を継ぐためと、自分の足場を固めるのに必死だからと、自分に言い訳をして。その上、このような目に遭わせてしまって……。本当に、すまないと思っている」
驚きに目を瞠る玲穎に、直謙が思いがけず柔らかな笑みを向ける。彼はそっと玲穎の手を取り、真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んだ。
「そなたを見込んで、頼みがある。後宮内で不審な動きをする者がいないか、誰があのような文を寄越したのか、調べてくれないだろうか。……ただし、くれぐれも無理はするな。何より、そなたも病み上がりの身だ」
「殿下……」
しばらく視線を彷徨わせていた玲穎だったが、その瞳の熱に圧され、やがて小さく頷かざるを得なかった。




