二.続く事件
数日後の朝、玲穎は後宮内の一画に設けられた庭を散策していた。
皇太子の妻たちは、皇宮の外で暮らす皇子妃や親王妃とは違い、内廷に居住区を与えられている。そこで夫や義母に仕えながら、未来の国母としての教養と立ち居振る舞いを身につけるためだ。
広大な敷地を誇る内廷は、皇帝の私邸である主殿・清寧殿を中心に、東に宦官の詰所や皇子の教育施設、西に皇后をはじめとした皇帝の妃嬪や、皇太子妃の住まいがある。整然と区画された建物に沿って幾筋もの道が作られ、その通路も、身分によって通行可能なものが厳密に定められていた。皇太子の妻たちの立ち入りが許されているのは、自らの住まいである北西区と、后妃の招きがあった場合の西区・南東区のみ。
重い溜め息を零しながら、玲穎が共同区画の東屋に足を踏み入れたその時。庭に隣接して立つ殿舎の門から、一人の若い女性が飛び出してきた。
「……小蓮?」
思わず目を見開いた玲穎が、その名を呟く。
はっと息を詰めて立ち止まったのは、皇太子側妃・江 明珠の侍女、小蓮だった。
「あ……」
彼女はつかの間逡巡したように視線を彷徨わせる。だが、すぐに最低限の目礼だけを返し、玲穎たちを振り切るように再び駆け出していく。
(どうしたんだろう……)
殺気立った様子の小柄な侍女を、玲穎は目を白黒させながら見送った。そんな彼女をよそに、背後に立つ侍女の秋月は、不快そうに鼻を鳴らした。
「まったく、想像しい……」
筆頭侍女の春海同様、朱家が用立てた侍女である秋月は、礼儀作法に人一倍厳しい。
明珠の実家・江家は近年、皇后・趙氏の実家の派閥に移り、急速に名を上げた一族だった。古さだけが取り柄のパッとしない朱家とは、対照的な存在だ。その朱家に縁のある一族の人間として、江家を良く思っていない彼女が口を開く前に、玲穎は苦笑混じりに制した。
「……何かあったのでしょう。まだまだ双子も小さいし」
明珠は昨年、双子の女児を生んでいる。
先々月で生誕から一年が経過したが、そのうちの一人は病弱で、しょっちゅう体調を崩していると聞く。夫である皇太子も心配して、明珠のもとに足繁く通って来ているようだった。
秋月の物言いたげな険しい目線を背中で受け流しながら、玲穎は散歩を再開する。彼女に何かを言われるまでもなく、自分の立場は身に染みていた。
明珠の侍女・小蓮が血相を変えて走り回っていた理由は、その日の夜には判明した。
「……なんですって?」
息を呑んだ玲穎に、話を聞き付けてきた春海が、淡々と報告する。
「──江妃様の朝餉に、毒が仕込まれていたそうです。幻覚作用の強い種類だったようで、血を吐いて錯乱した江妃様が、酷く暴れ回ったとか……。騒ぎが大きくなり、さすがに、隠し通すことは出来なかったと見えます」
「明珠様の容態は? 双子は無事なの?」
顔色を変えて立ち上がった玲穎を冷たい目で見上げ、春海が肩を竦める。
「御子様方の食事には、毒は仕込まれていませんでした。江妃は一時、昏睡状態に陥られましたが、医官の措置も早く、今は落ち着いているとか」
「良かった……」
思わず溜め息をついた玲穎は、崩れるように椅子に全身を沈み込ませた。そんな彼女に、筆頭侍女は淡々と告げる。
「見舞いの品は既に手配しております。玲穎様はお気になさらず、皇后陛下から賜った女訓書を、一刻も早く読み終えてください」
「……」
取り付く島もない春海の言葉に、玲穎はどんよりとした表情で黙り込んだ。反論を許さない空気を滲ませる彼女に、玲穎は「分かった」としか答えられない。
完璧な角度で一礼し、部屋を出て行く春海を見送り、玲穎は額に手を当てて深く息を吐いた。
(明珠様……)
江 明珠は今年、二十三歳になる。間もなく三十路に足を踏み入れる魯皇太子妃や藩側妃とは違い、歳の近い玲穎に穏やかに接してくれる、優しい側妃だ。歌や芝居を愛する夢見がちな一面もある、大人しく、楚々とした佳人。
毒には、外見に影響を及ぼすものもある。
彼女は夫を一心に慕い、皇帝の妻である妃嬪となる日を心待ちにしている。江妃の無事を、玲穎は祈らずにいられなかった。
空に厚く垂れ込めた薄暗い雲のせいで、気持ちまで重く沈み込んでしまう。
江 明珠の朝餉に毒が盛られた事件から、五日が経過していた。晩秋の菊月とは思えぬほどの冷たい雨が降り注ぐ午後、玲穎は物憂げな表情で、手元の書物に目線を落としていた。
頁を繰る手が殊更に遅々としているのは、冬さながらに冷えた部屋の空気の為だけではなく、内容にまるで興味が持てない所為だ。
幼い頃から嫌というほど読み聞かされてきた、礼国の代表的な女訓書。課題として改めて読み込むよう命じられたが、彼女には珍しく、一向に頁が進まなかった。
筆頭侍女の春海は、気乗りしない様子の玲穎に目を吊り上げながら、部屋の一画にじっと佇んでいる。彼女の尖った視線もまた、玲穎を憂鬱にさせていた。
玲穎がひっそりと溜め息を零していると、不意に慌てた様な乱れた足音が、彼女の私室の前で止まる。驚く玲穎を他所に、露骨に顔を顰めた春海が部屋の扉を開けた。
そこに居たのは、肩で息をする侍女の秋月だ。目を瞬かせる玲穎の前で、苦言の一つでも口にしようとしたのか、春海は大きく息を吸った。しかし、彼女が何かを言う前に、入室してきた秋月が焦ったように声を張り上げる。
「──たっ、大変です! 先ほど央廷から遣いが……。殿下が、皇太子殿下が、半刻後に、こちらにいらっしゃると!」
「……なんですって!?」
そう叫んで絶句した春海同様に、玲穎も息を呑んで驚愕していた。
玲穎が皇太子に嫁いで三年。四ヶ月ごとの夜伽以外で顔を合わせるのは、初めてと言っても過言ではなかった。
驚きに固まってしまった玲穎を尻目に、さすが筆頭侍女と言うべきか、早くも春海は一瞬の自失から醒めたようだ。彼女は未だ慌てふためいている同輩の肩を叩き、てきぱきと指示を下し始める。
「すぐに部屋の準備を! 掃除に抜かりがないか、貴女が確認して。それから、お茶の支度を。当主様から頂いた新茶があったでしょう? 殿下はあまり、甘い甜点心をお好みではなかったはずよ。すぐに司食労に、塩気のある茶請けの用意を頼んでちょうだい」
矢継ぎ早な彼女の言葉は、呆然としたままの玲穎にも向けられる。彼女は眉間に皺を寄せ、玲穎を急き立てた。
「玲穎様、何をボサっとなさっているんです!? 半刻では、お召し換えも難しいでしょう。せめて、お化粧だけでも整えませんと。……ほら、化粧殿へ、お早く!」
「え、あ、ええ……」
要領を得ない玲穎の返答に苛立ったように、春海は彼女の背をぐいぐいと押す。玲穎は、嵐のように舞い込んできた報せにひたすら混乱しながら、侍女頭に言われるがまま自室を出た。




