一.孤独な側妃
窓から覗く木々は晩秋の風にすっかり萎れ、乾いた葉を擦れ合わせている。
寝台に半身を起こし、枕元に積み上げていた書物に目を通していた朱 玲穎は、そのカサカサという音にふと顔を上げた。
切れ長の瞳に意志の強そうな眉、薄い唇の美しく整った顔は、化粧を施していないとより一層冷たく見える。しばらくぼんやりと窓の外を眺めていた彼女は、寝室に近づいてくる規則正しい足音に気付き、大儀そうに溜め息を零した。
「玲穎様、起きていらしたのですか」
顔をのぞかせたのは、玲穎の筆頭侍女の春海だ。
二十七歳、女盛りの彼女は、朝から一分の隙もない完璧な装いをしている。彼女をぼんやりと見上げる玲穎に、かすかに眉を顰め、春海は水差しの盆を乱雑な手つきで寝台の脇に置いた。
「目覚めていらしたのなら、声をおかけください。身支度を整えませんと」
「療養のために寝てるだけだもの。顔さえ洗ってればいいじゃない」
辟易として反論する玲穎に、春海が吊り気味の瞳をますます険しする。彼女は苛立たしげに、声を高くした。
「なりません! 殿下が尋ねていらしたら、どうします? 玲穎様には、朱家のご令嬢として、恥ずかしくない振る舞いをしていただかなければ」
「……桂月の半ばにお召しいただいたでしょう。なら、次は早くても年末だわ」
「玲穎様!」
露骨に顔を顰めた春海に、玲穎は肩を竦めてみせた。
彼女の夫、蘇 直謙──この国の皇太子であるその人は、玲穎にまるで興味を示さない。三年前に嫁いだ日から、三、四ヶ月に一度、思い出したように夜に訪れる程度で、行為が終われば言葉を交わすこともなく、さっさと帰っていく。
彼女が病床に伏している今も、夫は見舞いどころか、文の一通すら寄越さなかった。
無理もない、と玲穎は思う。
現皇后や現帝の寵妃の遠戚である他の妃たちとは違い、玲穎の朱家は古さだけが取り柄の、パッとしない第三派閥に過ぎない。夫は来春に譲位を控えている。彼女に構う暇などないだろう。
淡々とした表情の玲穎に業を煮やしたのか、主人を見下ろした春海が声を荒らげた。
「なにを呑気なことを! このまま女としての幸せも掴めず、一生を終えることになるかも知れないんですよ!? かつて、陛下にその存在すら忘れ去られた貞花がいたことを、ご存知ないのですか!?」
「……滅多なことを、言うものではないわ」
玲穎は侍女を咎めつつも、目線を逸らして手元の書物をさりげなく引き寄せる。沈妃は読書好きの変わり者で、子を一人身篭って以降は、生涯お召しのなかった中級妃だ。
玲穎が隠したのは、隣国の伝記を礼語に訳した説話集だった。先ほど侍女が腐した、亡き沈貞花の娘である公主・蘇 澄蘭が、この国にもたらしたものである。
憤懣やるかたないという風情の侍女に目線をやり、玲穎は溜め息を零した。
「──具合はもう良いの? 朱妃」
華やかな女性たちの末席でぼんやりとしていた玲穎は、穏やかな声に問われ、はっと息を呑んだ。慌てて顔を上げれば、その場の全員が一斉にこちらを注目している。彼女は冷や汗をかきながら頭を下げた。
「お気遣い痛み入ります、皇后陛下。ご迷惑をおかけしました」
へりくだった玲穎の言葉に、上座の椅子に腰掛けた女性──趙皇后は、「迷惑ではないけれど」と苦笑を浮かべる。
五十の足音を間近に聞きながら、すらりとした体躯と凛々しい美貌を誇る趙皇后は、玲穎たちの夫、皇太子・蘇 直謙の実母である。来春より後宮の中央に移り住み、妃嬪に任じられる予定の義娘たちに、薫陶を授けている最中だった。
曖昧に笑う玲穎に、皇后はそれ以上言葉を重ねることはなかったが、代わりに、玲穎の並びに座る女性が声を上げる。
「しっかりなさいな、朱妃。貴女も今後は嬪として、この国に住まう女性たちの手本となるのです。ぼんやりしている暇などないでしょう」
神経質な目つきで忠告するのは、皇太子の正妃である魯 愛凌だ。その隣で肩を竦めているのが、皇太子の寵の篤い側妃・潘 佳夕。玲穎の隣で落ち着かなげに視線を彷徨わせているのは、玲穎とほぼ同時期に側妃となった、江 明珠である。
玲穎はひたすらに、細身の長身を小さくしていた。
大陸の東の覇者である大礼国は、稀代の賢君・端明帝に導かれ、二十年に渡り平穏を甘受してきた。
まだまだ壮健で聡明な皇帝が、「冷静な判断と助力が出来るうちに、国を次代に委ねたい」と宣言をなされたのが、昨年。必死で慰留する周囲を説得し続け、ついに翌年の端明二十一年の春をもって、息子に至高の位を譲り渡すこととなった。
そのような大事な時期に体調を崩すなんてと、生真面目な魯皇太子妃はいたくご立腹のようだ。
(分かっている。仕方がないでしょう。……毒を盛られたのだから)
表向き、玲穎の体調不良は感冒をこじらせたことが原因だとされている。
けれど実際には、夕餉に盛られた毒により体調を崩し、半月ほど寝込んでいたのだ。
幸いにも、摂取した量がわずかだったため、玲穎自身は大事に至らずに済んだ。ただし、毒味役の女官は胃をひどく患い、皇宮を退かざるを得なかった。
玲穎は密かに、一堂に会した女性たちを観察する。彼女たちは表向き、玲穎の「体調不良」という言葉を疑ってはいないようだった。
後宮という名の華やかな牢獄においては、「誰かに害されかけた」ことすらも弱味となる。裏でどんな目に遭おうとも、人前では涼しげな表情を保つことでしか生き抜けない。玲穎も、そのことは痛いほどに理解している。夫の寵愛の薄い側妃であれば、なおのことだ。
腹に隠したどす黒い気持ちを存在しないかのように振る舞い、優雅ににこやかに振る舞う女性たちのことを、玲穎は恐ろしく思う。
大国の風格と絢爛さを纏う、極彩色の獄舎。そこに響く柔らかな笑い声に、玲穎は小さく肩を震わせた。




