十八.星の導く明日
春海は投獄され、秋月も実家に帰ってしまった。
今は、冷宮所属の端女が、臨時で蒼花殿に派遣されている。玲穎は彼女たちの手を借りながら荷物を片付け、退任の日を静かに待っていた。
あの日──一計を案じて春海に罪を認めさせたあの晩から、直謙とは顔を合わせていない。それで良いと、玲穎は思っている。胸は痛むけれど、皇帝になる彼に、自分のような汚点がついて回ってはならないのだ。
彼の即位の儀まで、あと二旬。心の整理を済ませるのにも、十分なはずだ。
小さく溜め息をついた玲穎は、廊下を渡ってくる足音に気付き、ふと瞬きをした。
間もなく夜になる。冷宮付きの女官たちは、夕餉の片付けが終われば寮に帰って行く。この時間からは、見張りを除けば玲穎は一人きりのはずだ。
恐る恐る外の気配を伺っていた玲穎は、その足音の主の正体に思い当たり、……大きく息を呑んだ。
「……殿下」
部屋の扉を開き、呆然とする玲穎を見下ろしたのは、皇太子・蘇 直謙だった。
「殿下、どうして……」
動揺する玲穎を制し、直謙は彼女の部屋に押し入ってきた。彼は後ろ手に扉を閉め、じっとこちらを見下ろしてくる。その目のあまりの力強さに、玲穎はたじろいだように後ずさった。
だが、逃げた分、彼は躊躇いもなく距離を詰めてくる。咄嗟に目を逸らした瞬間、逞しい腕に抱きすくめられ、玲穎は目を見開いた。
夫は今にも消え入りそうなほど弱々しい声で、項垂れるように言った。
「すまない。守ると言ったのに、こんな結果になってしまって……」
不器用なまでの夫の真っ直ぐさが、心に染みいってくる。玲穎は目を伏せて答えた。
「いいえ、殿下。……死罪も覚悟しておりました。生きていられるだけ、私は恵まれています。無理をしてくださったのではないですか?」
即位を目前にし、下手な隙を見せるわけにはいかない立場のはずだ。無理に玲穎を庇うような素振りをすれば、「私情で判断を下す皇帝」との謗りは逃れられない。出来うる中で、彼は玲穎の生存の為に抗ってくれたのだろう。
そして、琴華公主の助言もまた、自分を救ってくれたことを、玲穎は理解している。あの時声を掛けてもらったから、彼女の立場は逆転した。
きっとこれ以上を望んでは、罰が当たる。母も同様の処分を受けたため、二人で決められた流刑地へ赴くのだ。考えうる中で、最も穏当な結末だ。
静かに微笑む彼女から身体を離し、間もなく皇帝となる皇太子は切なげな目で見つめる。これで良いのだと、玲穎は頷いてみせた。
「殿下。差し支えなければ、流刑地はどこになるのかと、伺っても良いでしょうか? 多少、衣服など用意して良いものなら……」
「……流刑?」
怪訝そうに彼女の言葉を繰り返した皇太子が、盛大に眉根を寄せた。
「何を言っている。……『皇都への立ち入り』は禁じられたが、別に、遠方に行けとも言われていないだろう。隣町に伝手があるから、そこに落ち着いてもらうことで話を付けてきた」
今度は、玲穎が絶句する番だった。
「ですが……。処刑される各人の家人も、流罪だと……」
「そなたと母君には酌量の余地あり、と前置きがあっただろう。皇都の隣の、西街道沿いの小さな町でまとまった。世話人も手配している」
「ええ……?」
思わず拍子抜けしてしまった玲穎に、夫はムッとした顔で詰め寄ってくる。その威圧感たるや、玲穎が思わず冷や汗を浮かべるほどだった。
彼女が後ずさった分だけ、直謙が距離を詰め、やがて逃げ場をなくした玲穎は長椅子に崩れ落ちる。その上に覆い被さるように、直謙がのしかかってきた。
「……俺から、離れたかったのか?」
淡麗な顰めっ面に間近で問い詰められ、玲穎は慌てて顔を左右に振る。直謙はかすかに安堵したように息を零し、そのまま顔を俯けた。
「退任は止められなかった。……そなたを、『妃嬪に相応しくない』などと言わせてしまった」
玲穎は息を呑み、目を見開いた。
(本当に、なんて情の深い人なのだろう……)
かつて玲穎は、「忘れられた皇太子側妃」と呼ばれた。それは確かに事実だったけれど、その評をそのままにしてはならぬと、彼は心を砕いてくれた。
孤独も、救済も、目の前のこの人に与えられてきた。そして今、彼は「玲穎」を真っ直ぐに見て、誰よりもその心を慮ってくれる。
いつかのように、いつものように、頬に添えられた大きな手のひら。その感触に安堵しながら、玲穎は目を細めた。
「……殿下が、そう思ってくださる。それだけでもう、充分です」
この温もりがあれば、自分は生きていける。
それに、西街道沿いの近郊地ならば、彼が国土視察や西南諸国訪問に向かう際に、通りがかることもあるだろう。遠目に見かけることもあるかも知れない。
夫と妻として、人生が交わることはもうないけれど、永遠の別れというわけではないのだ。
穏やかな彼女の笑みに何を思ったのか、彼は駄々を捏ねるように小さく首を振った。そんな意外な子どもっぽさも、全てが愛おしい。
今度は玲穎が直謙の頬に手を伸ばすと、彼はぎゅっと唇を引き結んで言った。
「……そなたの、世話人だがな」
「はい」
「父皇の、かつての義父殿の一人に頼んだ。妃本人は随分昔に儚くなり、彼自身も今は宮仕えは退いて、家督を弟の息子に譲っている。最後は穏やかに暮らしたいと、皇都近郊の町に拠点を移した。
父皇も何かと頼りにしていて……、例えば八年前、冤罪で家族を失った少女の保護を頼んだそうだ」
玲穎は目を見開く。夫の言うような人物を、彼女は一人だけ知っていた。
直謙は肯定するように、小さく頷く。
「朱家も取り潰しになってしまった。今後は母共々、『沈』姓を名乗ると良い。……如松にも承諾を得ている。戸籍などもきちんと処理すると言ってくれた」
沈 如松。亡き沈貞花の父であり、──玲穎が密かに憧れてきた澄蘭公主の祖父。
玲穎の眼前で、夫は悪戯が成功した子どものように笑っていた。
二人はしばらくそのままの状態で見つめあっていたものの、さすがに無理な姿勢が続いたためか、やがて直謙が音を上げるように尋ねてきた。
「隣に座っても良いか?」
際どい体勢を続けていた夫の今さらの確認に、玲穎は「はあ……」と頷きを返す。彼が左隣に腰掛けるのを見送り、玲穎は重みの消えた腿のあたりに何となく手を伸ばした。
だが、その手は夫に優しく取られ、彼女はあっという間に、彼の膝に横抱きに引き上げられる。
至近距離で彼女の目を覗き込む夫の表情は、余裕めいた茶目っ気を帯びていた。けれども、瞳だけは底光りするような強さを湛えており、玲穎を正面から捉えて離さない。
狼狽えているうちに、不意打ちのように浅く唇を啄まれる。玲穎は咄嗟に身を捩った。
「……で、殿下! なりません!」
「何故だ」
「ですから……!」
──私はもう、貴方様の妻ではないのです。
断腸の思いで玲穎がそう告げると、夫はきょとんと首を傾げて言った。
「……そなた、裁定をちゃんと聞いていたか? 『新帝即位と同時に、内廷における一切の職位を返納』だぞ。──つまり、杏月の初めまでは、そなたは皇太子側妃のままだ」
唖然として固まった玲穎の顎を、直謙の骨ばった指先が掬い上げる。彼は疲れの色濃く滲む目を伏せ、再び玲穎に口付けた。
触れるだけの唇の感覚が、やがてどんどん深く、熱くなっていく。玲穎はたまらず夫の胸に縋り付きながら、小さく身体を震わせた。
(……駄目。いくら建前上はまだ皇太子側妃であっても、私は咎人なのに)
頭では理解している。それでも、触れる唇に、腰を抱く手に、感じる吐息に、理性が押し流されていく。彼女の全てが、彼を求めている。
(私のせいで……、直謙様が、穢れてしまう)
夫は模範的な皇子だった。真面目で、真っ直ぐで、自分に厳しくて。何よりも規則と伝統を重視する、完璧な皇太子だった。
それなのに、いつの間にかこんなにも危ない橋を渡らせてしまって。彼の「正しさ」を、大きく狂わせてしまった。
激しい後悔に苛まれ、玲穎は罪深さに恐れ戦く。
けれど同時に、玲穎の歪んだ心は、それを確かに喜んでもいた。ひたむきに自分を見つめる彼の眼差しに、心の底から酔いしれた。
初めは、義務のためだった。
いつからか、理解するためになり、確かめるためになり、──今はただ、「そうしたい」から、互いを求める。
圧倒的な甘美な感覚から、玲穎はもう、逃れることが出来ない。
「──玲穎」
魂を焼き焦がすような熱が離れ、夫が荒い呼吸と共に彼女の名を呼ぶ。
「……直謙様」
玲穎もまた、乱れた呼吸の合間に彼の名を呼ぶ。
逞しい腕に抱き上げられ、寝台に向かう間、玲穎は自らの意志で夫の首筋に強くしがみついていた。




