十九.もう一つの約束
梅花の綻ぶ杏月の始め。
皇太子・蘇 直謙は、父に手ずから至高の位を示す冠を被せられ、百万の官民が跪いて見守る中、燦然と輝く玉座に登った。
その気質を示すような鍛え上げられた身体は逞しく、堂々としており、人々は新たな王の誕生に熱狂したという。
光啓帝と名乗る彼は、賢帝と名高い父の路線を引き継ぎ、堅実に、時に大胆に、様々な問題を内包する大国を導いていった。
一方、その輝かしい即位の儀の裏で、一人の女性が皇宮を去ったことを、知る者は少なかった。
密やかに「光啓帝の運命」と称された、かつて皇太子側妃であったその女性の行く末は、歴史には明確に記されていない。謎めいたその存在がどんな生を送ったのか、後世の人間には知る由もなかった。
新帝の即位を祝う宴は、夜半まで続いた。
その席で、新帝に続いて注目を集めたのは、賓客として招かれた隣国・錚雲の王、カルティクだろう。
真っ直ぐな銀髪や鍛えた身体は、加齢によりやや衰えつつあったが、湖面のような碧眼は力強く輝いている。隣に並んだ女性と穏やかに談笑する姿に、人々はちらちらと目線をやり続けた。
やがて、許可を得て宴席を退いたその女性は、随身を連れ、夜の庭を散策していた。宴が開かれたのは外廷──男性たちが政に精を出す皇宮の南部分であったため、彼女にはあまり馴染みのない場所だった。
彼女は艶やかな緑髪を風に遊ばせながら、そっと目を細める。錚雲の伝統衣装を纏い、礼国式に髪を結ったその姿は板に付いていて、普段からそうした装いに慣れていることが見て取れた。
しばらく気ままに歩いていた彼女は、やがて何かに気付いたように足を止める。立ち止まったその背中に声を掛けたのは、同世代と思しき、麗しい女性だった。
「──澄蘭」
名を呼ばれ、振り返ったのは、太上皇となった蘇 冽然の娘にして、錚雲王国側妃・蘇 澄蘭だった。思慮深い切れ長の目に穏やかな光を灯した彼女は、背後を振り返って嬉しげに微笑む。
「──琴華長公主殿下」
しなやかな身体で優雅に錚雲式の礼をとる澄蘭妃に、酒でほのかに頬を染めた大礼国長公主・琴華は眉根を寄せた。
「もう、そういうのはやめてって言ってるじゃない。私たち、姉妹なんだから」
馴染みのやり取りに、八年ぶりに再会した姉妹は小さく吹き出す。彼女たちの傍らに佇む二人の女性も、そっと目配せを交わし合った。澄蘭の随身・喬 姷明は、乳母から侍女となった琴華の側近とも顔見知りだった。
三月違いの姉妹は自然に歩み寄り、じっと互いを見つめ合う。相手の目に映る自分の姿に、琴華はそっと目を細めた。
「元気そうね。……ご活躍じゃない」
「お姉様こそ、お変わりなく。いえ、益々お美しくなられましたわ」
かつてはおずおずと口を開き、決して相手の目を見て話さなかった義妹の堂々とした姿に、琴華はわずかに目を見開く。すぐに微笑んだ彼女は、義妹を誘って庭を散策し始めた。
「シャグン王とは、上手くやってるの? 王女は?」
「何とか。時に議論にもなりますけれど、大らかに接してくださいます。……娘は、あまりにお転婆が過ぎて。姷明の子と一緒にお留守番です」
「残念、会いたかったのに。……崔氏や如松殿には? 会えたの?」
「お母様と、尚清殿下には儀の前にお会いしました。お祖父様には……帰りに隠居先に寄っても良いと、許可をいただいてます」
長年の空白など存在しないかのように、彼女たちは会話に花を咲かせる。やがて、澄蘭がふと夜風に揺れる梅花を見上げ、穏やかな声で呟いた。
「直謙様……、いえ、陛下は、少し変わられましたね」
「そう思う?」
「はい。柔らかくなられたというか……。こんなことを言うのは不遜でしょうが」
苦笑した澄蘭に、琴華は朗らかに笑う。
「……きっと、大切なものを見付けたのよ。生きていく上でかけがえのない、確かな支え──光を」
澄蘭はふと目を瞬かせたが、その言葉を深堀りすることはなく、ほのかに笑って頷いた。
侍女に見守られながら、しばらく散歩を続けていた二人は、やがて揃って足を止めた。澄蘭は錚雲式の衣装の袖を探り、宝物を捧げるような手つきで腕を差し出す。
「琴華姉様。……お返しするのが遅くなり、申し訳ございません」
彼女が取り出した布包みから現れたのは、丁寧に磨かれた簪だった。琴華がかつて、舞の褒美として父から賜り、異国に嫁ぐ妹に貸したもの。「借りものを身に付けて婚儀にのぞめば、幸せになれる」という隣国の風習に、密やかに思いを託したものだった。
穏やかに微笑む妹を見つめ、琴華はそっと、悪戯っぽく笑い返す。
「……今、酔ってて手元が危ういの。落としたら嫌だから、預かっていて」
『貸してあげる。また次に会う時に、返してね』
姉の言葉を思い出しながら、澄蘭は目を瞬かせた。優しく目を細める姉の笑顔は、八年前とまるで変わらない。澄蘭の眦が、その言葉を受けてかすかに潤んだ。
こちらに歩み寄ってきた琴華が、澄蘭の手のひらごと簪を握り締める。姉妹は互いに見つめ合い、そして互いに頷き合い、やがてそっと離れていった。




